LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)
卯藤に会いたくなった。今更平然と会うわけにもいかないと、あの日から一度も彼の店には行っていなかった。だが…この日は吸い寄せられるようにトラムに乗ってしまった。まるで片岡を過去の記憶に誘うタイムマシンの如く、トラムは夕暮れのアルファマへ向かう。
停留所から「待ち人」までは歩いて僅かの距離だ。店に入ると客は数人だけだった。その理由はすぐわかった。菓子が並んでいるはずのショーケースが殆ど空っぽだったからだ。カウンターには先日と同じ金髪の若い女性がいて、片岡の顔も覚えていたらしく微笑んで『いらっしゃい』と声をかけてきた。
「ごめんなさい。水曜日は閉店が午後六時なのでお菓子の補充がないの」
片岡が腕時計を見ると既に四時半を過ぎていた。
「店長にご用?」
「仕事でちょっと寄っただけなんだけど…彼は奥にいるの?」
「いえ、それもごめんなさい。今日は午後からアルカンタラでお菓子教室の先生をしているので…でも、もうじき戻るはずだからよかったら待っていて。店長はこの上の階に住んでいるの」
「じゃあ、あっちのテーブルで待ってみるよ。…ビカとその、一つだけ残ってる菓子を頼めるかな」
持参していたタブレットで用事は済ませられた。本当のところ今の段階なら仕事などカフェのテーブルで事足りる。もう一度メールのチェックをして窓の外を見ると、すっかり暗くなっていた。時計を見ると五時半を回っている。
「もうすぐ閉店か…」
店員の女性が申し訳なさそうにカウンターから片岡を見つめた。片岡は気にしていない、と意思表示するように微笑み、テーブルに勘定を置いて立ち上がるとタブレットを黒のビジネスバッグに納めた。
「日を改めるよ。ありがとう」
しかし片岡が礼を言って立ち去ろうとしたその時、入り口の扉が開いてこの店の主が戻ってきた。
「お帰りなさい。この方、ずっと待ってて下さったんですよ」
「誓…」
黒の細身のスタンドカラーのコートに濃いグレーのデニム、デニムのトーンを一段上げた色合いのグレージュのブーツを合わせた姿は、彼の色白で端麗な顔立ちに似合っていてシックだ。この出で立ちからお菓子教室の講師を想像するのは難しい。だが教室はさぞ人気があることだろう。
「どうしたんだ」
「いや特に。仕事のついでで…この間は殆ど話もできなかったから」
彼といざ顔を合わせると、何を言っていいのかわからなくなった。卯藤はずっと店番をしていた女性に帰宅を促した。
「ご苦労様。店の片付けは俺がやっておくよ」
「じゃあ、レジだけ締めますね」
レジを締めてカウンター周りの片付けを手早く済ませると、店員は帰っていった。店の入り口に「閉店」のプレートを掲げ、店の中には片岡と卯藤の二人だけになった。
「お前…結婚は。それとも恋人とか…いるのか」
いきなりこんな話から始めてしまった。
「今はいない。店が忙しくて。オフシーズンだしこの時期はましだけど」
客席のテーブルを拭きながら卯藤は淡々と答えた。
「その…手伝おうか」
「いいよ。ゆっくりしてて。…君は相変わらず仕事魔って雰囲気だな」
卯藤は顔を上げて片岡の姿をちらりと見た。ノーネクタイだが青いシャツに…彼もまたチャコールグレーのジャケットを着ていて、ビジネスマンらしいオードソックスな服装だが質のいいものを合わせている。もう三十代半ばのはずなのに、細身のパンツが似合って昔と変わらずモデルのようなスタイルの良さだ。しかし、何か足りないものがある。
「煙草…吸わないのか」
ヘビースモーカーのはずだった。煙草が嫌いな卯藤が何度諌めてもやめる気配もなかったのだが。いつも服や髪に染み付いていた煙草の匂いが今はない。
「ああ……やめたよ。すっかり」
返事に一瞬の含みがあった。だが卯藤は追求せず、そうか、と呟いただけだった。
「さっき…この店の内装をやったデザイナーに会ったんだ。…会って初めて知ったんだけど」
「ジョアンに?」
「お前に随分値切られたって文句言ってたぞ」
卯藤は声を立てて笑った。笑うとすました顔つきがふっと緩んで優しくなるのは昔と変わらない。
「もう店も閉めたから…飲むか?ポートでよければ」
何か甘いものがあればもっと良かったが、と言いながら、卯藤はカウンターの奥からボトルを取り出した。ブランデーを加え発酵を途中で止めて作られるポートワインは色も熟成度合いも様々だが甘みが強く、食前や食後のデザートに向いた酒だ。
卯藤がボトルの中身をグラスに注ぐと深いガーネット色が現れる。二つ注いだうちの一つを片岡に差し出した。二人でカウンターに凭れて軽くグラスを合わせた。一口飲むと濃厚な甘さ、そして果実の香りとスパイスの軽快な刺激が混ざり合う。
「ヴィンテージか」
「うちのスペシャリテでは、オーブンから出したばかりのナタにこれをふりかけて、粉砂糖で化粧させて出している。残り物のナタを肴に飲んでみたら相性が良かったからね。ルビーならもっと果実味が強くフレッシュになるし…」
菓子の話になると相変わらず饒舌になる。この仕事は紛れもなく卯藤の天職なのだろう。しかしワイングラスを手にして中身を飲み干す仕草はここまで堂に入っていなかった。まるで呼吸をするかのように自然だ。十年の経過はこんなところで感じるものなのか…。
「彼から聞いた…って、彼もお前の話を聞いただけだと言ってたが…ずっとヨーロッパを回ったんだって?」
「まあ、フランスとイタリアの一部と…ベルギーくらいだけどね」
「どこが面白かった」
「フレンチ・バスク…あとはシチリア。でも、俺は菓子を基準にものを見てたから」
本当に呆れるほど菓子ばかり追いかけて放浪した、と卯藤は苦笑いした。
「でも結局…リスボンに戻ってきたのか」
「そうだな、戻ってきた」
ぽつりと呟く卯藤に、片岡は一番聞きたかったことを尋ねた。
「どうしてお前は…ずっとここにいるんだ」
「ナタを作りたいから」
今度はきっぱりと答えた。
「そう…だけど、もし他の場所で…日本に戻って店を出せばお前なら」
「ポルトガルでなければナタはナタじゃない。色々回ってその土地の菓子や食べ物を見てわかった。そこでなければ生きない食文化があるって」
卯藤は片岡を見つめて微笑んだ。ワインのせいで目元が薄紅に染まり、片岡に投げかける視線も微かに揺らめいていた。だが、ふっと視線を外して瞼を伏せた。その…何気ない所作に妖艶な陰を見いだした片岡は、思わず背筋がぞくりとするのを感じた。
「瞠…お前がそこまでナタという菓子に固執する理由は何なんだ」
卯藤はしばらく無言だった。そして突然、くくっ、と喉を鳴らすような声で笑い出した。
「君が…俺にそれを訊くとは心外だな…」
「…どういう意味だ?」
だって君が…
君があんなに美味そうに…幸せそうにあの菓子を食べていたから。
そして、君をそばで見ている自分も幸せだった。
こんな小さな、なんでもない食べ物なのに…
もし自分の手でこの菓子が作れたなら、君はずっと俺のそばで笑っていてくれるだろうか?
何があっても、いつか俺のもとへ帰ってきてくれるだろうか?
作品名:LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆) 作家名:里沙