LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)
あの日、アルファマのカフェで片岡の昔の知り合いと出会った時に彼が見せた表情は…パリで再会した晩と同じだったような気がした。それはつまり郷愁のようなものだろうか?過ぎ去った時を懐かしんでいたから?
いや、違う。エリの脳裏に不安がよぎった。片岡にとって卯藤は殊更思い入れの深い人間なのではないか…と。あの時二人が交わした言葉は二言三言だけだったが、今となっては只の友人ではない何かがあったように思えるのだ。片岡に紹介されて自分に挨拶してきた卯藤は表情も柔らかで感じのいい男だったが、同時に言葉では表せない不思議な色気を感じた。それは男性が女性の気を惹くためのものではなく…
まさか。背筋がひやりとした。と同時に我に返ったエリは、一人で石畳の下り坂を歩いている理由を一瞬思い出せずその場に立ち止まった。
そして、目の先に広がった景色に息をのむ。
青空の下、サン・ジョルジェ城を頂くアルファマの丘の景色が視界一杯に広がっている。サン・ペドロ・デ・アルカンタラの展望台のある場所に出てきていたのだ。そういえば片岡と暮らすアパートの物件選びでこの近くに来ていたのだった。
リスボンの街にそれほど興味があったわけではないが、アルカンタラの展望台からの風景は心底美しいと思った。
今日、ようやく「これだ」と思う物件に出会って、どうにか契約を済ませてきた。クリスマスも新年も過ぎて、リスボンでの二ヶ月近くにわたるホテル暮らしからもようやく解放されそうだ。外国人がこの辺りの物件を好んで買うことも多いらしく、不動産屋が英語で交渉出来る人物だったのが幸いした。
この景色を見下ろせる場所で彼と暮らしたい。エリは初めて片岡とのリスボンでの生活を思い描くことができた。だが、そのイメージの中に時折異質なものが現れる。アルファマのカフェの店主の美しい横顔に片岡の姿が透けて重なり、その残像は溶け合って闇に消えていく…。
きり、とエリは奥歯を噛み締めた。一切の憂いなく片岡と新しい生活を始めるためには、どうしても確かめなければならない。この三週間ほど、片岡が決まって毎週水曜日に戻るのが夜中を過ぎている理由を…。
◆
「アパート、決めて来たわよ」
この日は木曜日だった。片岡は午後七時にはエリの待つホテルの部屋に戻ってきていた。
「この間話してたバイロ・アルト北側の?」
「そう…でもよかった?私一人で決めちゃって」
ソファに腰掛けてクッションを抱えながら、エリは片岡の反応を伺った。
「問題ないよ。ごめん。君にすっかり任せっきりで。…俺も正直ラパよりそっちがいいと思ってたんだ。ホテルの予定地から近いし便利だからな。ありがとう」
片岡はいつもと変わらず朗らかに答えた。
「じゃ、早速引っ越さなきゃなあ。…中の様子、どうだった」
「電気と水道はいつでも使えるようにしてあるって。家具も一式揃ってたわよ。でも、食器やリネン類は買わなきゃ。取りあえず食べて眠れる環境だけでも作らないと」
「エル・コルテ・イングレスに羽布団って売ってたっけ」
「さあ…暇つぶしによく行くけど、そこは見てなかった。ねえ、それより」
エリは、ずっと気にかけていたことを切り出した。
「アパートに移って落ち着いたら…結婚式を…」
「そうだな。ちゃんと考えよう」
片岡は穏やかに微笑みながら答えてくれた。エリの唇から思わず安堵の溜息が漏れる。
「よかった。何のことだって聞かれるかと思った」
「なんで。当たり前のことだろ。…どこで式を挙げたい?日本に帰るか、南フランスかイタリアか…」
気のせいだ。
傍らに腰を下ろして腕を回し、優しく自分を抱き寄せる片岡の温もりにエリは目を閉じて身体を預けた。
あの男のことは、只の思い過ごしだ。たとえ片岡があの卯藤と会っているとしても、昔話に花を咲かせているだけに違いない。
「とりあえず、土曜日に二人でアパートの様子を詳しく見てこよう。それから…サン・ペドロ・デ・アルカンタラの展望台には行ったことあるか?」
「この間行ったわ。偶然だけど…凄く綺麗な広場で、景色も良かった」
「うん…俺も大好きなんだ。あの場所…」
片岡の脳裏に、美しい展望台とそこから見える街の風景が蘇った。
あの日は…バイロ・アルトの丘から北に向かって何となく歩いているうちに道に迷ってしまった。坂を下ればバイシャ方面に向かうだろうと、当てずっぽうに道を下ってきたところに展望台があって…
展望台からの雄大なパノラマに驚嘆して、二人並んでずっと飽きもせず、黙って景色を見つめていた。すると急に日が陰って肌寒くなってきた。木綿のシャツにパーカーを羽織っただけの瞠が小さくくしゃみをするのを見て、思わず彼の肩に手を触れた。瞠が少し驚いたように自分を見つめてきたので、その手は引っ込めたが、寒くないか?と聞くと、彼は微笑んで大丈夫だと答えた。その笑顔が心なしか嬉しそうに見えて…
そして、とても綺麗だった。あの日リスボンの街を包んでいた秋の空気のように、澄み透った彼の表情に自分の心が高鳴るのを感じた。
瞠のことを好きなのだと気がついたのはこの時だった。
だが、もう昔の話だ。俺は新しい人生を送る為にリスボンにいる。半分成り行きだったとはいえ、エリとの結婚生活は幸せになれそうな気がしてきた。彼女は思っていた以上に前向きで素直で、自分の仕事にも一定の理解を示しているし、あれほど文句を言っていたリスボンでの暮らしも少しずつ楽しむようになっている。アパートの窓からリスボンの街並を見ながらエリと暮らす様子を今なら自分も想像できる。
土曜日に、エリと二人で展望台へ行こう。
そして…水曜日の夕方になるたびに、あの男の部屋を訪れ肌に触れたくなる欲望を断ち切らねばならない。
エリに寄り添いながら、片岡は込み上がる苦い感情をどうにか飲み下そうとしていた。あれから結局、卯藤との関係が続いていたのだ。彼の店の閉店が早い水曜日になると、おのずと片岡の足は卯藤の部屋に向かった。
卯藤もはじめは片岡を拒む素振りを見せていたが、そのうちに諦めたのか、セックスを求める片岡に素直に応じるようになった。
恐らく卯藤も自分と別れて十年の間に、別の男と付き合ったことがあるのだろう。片岡をどう思っているのかわからないが、彼の腕の中で快楽をそれなりに享受しているようだった。少し悪く言うなら、男に慣れているということだろうか。昔とそれほど変わらないように見えても…やはり以前とはどこか変わった彼に対して、興味と何故か不安を覚えるのだった。
もしも、他に好きな人間ができたからと言われて完全に…セックスだけの関係ですら拒絶されたとしたら?このままずるずると卯藤との関係を続けるわけにはいかないのに、そんなことに思い悩む自分はどうかしている。
だが片岡は決心しようとした。
来週の水曜日には…いや、これからも、一切卯藤の部屋には行かないと。
彼自身の中にある、絶対的に満たされない部分から目を背けて…
後編に続く
作品名:LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆) 作家名:里沙