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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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 ホテルのルームサービスで朝食を済ませて出かける支度をする片岡に、ソファに寝そべってスマホを触っていたエリが、わざわざ起き上がって片岡にスマホの画面を見せにきた。日本の女性雑誌がポルトガルの旅特集をした記事らしい。ウェブサイトで一部を公開しているのが検索で引っかかったとエリは言った。現地の日本人旅行ガイドが薦める店として、卯藤のパステラリア兼カフェの店内と彼の写真が載っていた。上手く撮れている。店内もスタイリッシュに見えるし、例の白い作業服姿で菓子を盛った籠を手に微笑む卯藤の美男子ぶりは、片岡が見ても腹が立つほどだ。
「ホントだ。あいつ、ちゃっかり日本にまで宣伝してるのか。…昔は大人しかったのに人間変わるもんだな」
「雑誌が食いつく要素は揃ってるわよね。観光地の中、お店がきれいでスイーツが充実、店長は芸能人ばりのイケメンで日本語OK…口コミも見たけどかなりいい評価だったし」
「…よく調べてるじゃないか」
 片岡自身理由はわからないが、何だか面白くない。それは卯藤が自分も知らないうちに着々と夢を叶えているからなのか、多少でもエリが彼に興味を持っているからなのか。
「そりゃあ…誓がやたらあの人のことを意識してるから。私だって気になっちゃうじゃない」
「やたらって…してないよ。てか、二年ルームメイトしてたんだから多少は気になって当たり前だろ」
「多少ねえ…」
 エリがしらけた顔で自分を見つめるのに苛立ちながら、片岡は黙ってワイシャツの上にジャケットを羽織った。
「で、物件はやっぱりあれに決めるの」
 あれ、とはホアキンに紹介された例のアルファマの住宅のことだ。
「十中八九は。さて…ターゲットも定まってきたし、事務所を開く申請も無事に降りそうだから本格的に準備を始めるぞ」
「じゃあ、忙しくなるのよね」
「まあね…でも週末の晩はフォーシーズンリッツで夕食をとろう。予約を入れておく」
「やった!行ってみたかったの!」
 片岡はころりと態度を変えてはしゃぐエリの額をふざけて小突いた。
「君も本気でアパート探しを頼むよ。決まったら日本に戻って引っ越しの準備をするんだろ」
「うん…でも迷ってるの…ラパか新興地区のマンションと思ったけどバイロ・アルトの少し北の方も街並が綺麗でいいなって…ねえついでにホアキンさんに聞いといて。いい物件がないかって」

 事務所を開いてもホテル開業まではまだまだ遠い道のりであるが、まず事業を始めなければ目を付けた物件を取得することもできない。取りあえず、便利なバイシャ地区に丁度いい空き店舗を見つけすぐに契約した。物件をじかに確認したが電源やネットワーク接続の状態が良好なのが何よりだった。少しでも不具合があって整備を頼んでも、この国の連中はなかなか動いてくれないので計画に遅れが出るのは火を見るより明らかなのだ。  
 ようやく環境が整った事務所で仕事をするようになって数日後、昼食時間を利用してリスボン在住の店舗デザイナーの男と会った。未だに住む場所も決まっておらず、自分がホテルから出勤している状態でホテル建設や内装のことなど遥か先の懸案なのだが、フェイスブックで片岡を見つけたデザイナーが、片岡の経歴とリスボンでホテル経営を始めようとしていることに興味を持って声をかけてきたのだ。SNSで交流する限り感じが良さそうだったのでまず会ってみることにした。実際に出会った人物も真面目だが気さくで話し易く、これでいい仕事をしているなら関わっておいて損はないと感じた。
 昼食に利用したのは彼が内装を手がけたレストランで新興地区のパルケ・ダソ・ナソンイスの商業施設の中にあった。しかし案内されて店に入った片岡は中の様子にどこか見覚えがあるような気がした。単調な色彩でコントラストがはっきりしているが、テーブル、椅子などの調度品や所々のディテールは木目を生かして暖かみを出している。奇をてらいすぎず、だがモダンな内装に好感が持てたが、やはり初めて見る気がしない。ワインを飲んで食事をしながら記憶を探っているうちにふっと思い浮かんだ。
 …瞠のカフェ。
 まさかとは思ったが、もしかしてアルファマの「待ち人」の内装は彼の仕事かと訪ねてみた。
「そうです。僕が手がけました。ご存知だったんですか?」
「いや、知らなかったんですが、この店を拝見してもしやと思いまして」
 デザイナーは驚いて目を丸くした。
「へええ…わかるんだ。流石にあのエトワール・ホテルズで仕事をしてらっしゃっただけのことはある…でも、ミハルの店の内装は僕がまだ駆け出しの頃に引き受けたんです。店の評判が広まって雑誌にも何度か載ったので…僕にもぼちぼち仕事が来るようになったんですよ」
「そうだったんですか」
「本当に、内装を任せてくれたミハルは僕の恩人です。…そういえば彼も日本人でしたね。もしかしてお知り合いですか?」
「ええ、昔の。あなたこそ彼と知り合ったきっかけは?」
「アルファマのフリーマーケットで自作やリノベーションした家具を売っていたら、彼が目をとめてくれました。で、カフェを開くんだけど資金が少ないから、店の中は全部任せる代わりに安くしてくれって言われて」
「無茶なこと言うなあ」
 一人で見知らぬ国に留まって店まで開いてしまった卯藤は、十年の間に随分図太く、逞しくなったようである。
「でも、自由にやらせてくれたから楽しかったです。それに時々彼が自分で焼いた菓子を作業場に持ってきてくれたんですが、本当に美味くてね。この店は絶対流行ると思って頑張りましたよ」
 今でも卯藤と友人付き合いがあるというこのデザイナーから、思いがけず色々話を聞く事ができた。あれからずっとリスボンにいたのかと思っていたが、数年の間ヨーロッパを廻って郷土菓子作りを学んで歩いていたらしい。再びリスボンに戻って再び菓子店に勤めた後、自分の店を開いたようだ。だが、フランスやイタリアの菓子作りまで学んでいながら、彼の作るものはきわめて伝統的なポルトガル菓子だけだと言う。
「彼の作るパスティス・デ・ナタはリスボン一ですよ。僕はベレンの店のよりミハルのナタがいい。妻も息子も彼のナタが大好物でしてね」
 
 パスティス・デ・ナタ。瞠の記憶に寄り添う甘い幻…
 デザイナーと別れて、バスと地下鉄を乗り継いで事務所の前まで戻ってきた…が、片岡は事務所の前を通り過ぎて東へ…アルファマへ向かう黄色い路面電車に乗り込んだ。
 トラム二十八番線。アルファマの街並を縫うように走り、移民が多く暮らすマルティン・モニスまで繋がる観光客に最も人気の路線だ。河を見下ろす美しい景色にたどり着くのも大きな魅力だが、一番の目玉は住宅に挟まれた狭い道路をトラムがすいすい通り抜けて行く場面だ。先日は「何が悲しくてこんなものに」とふてくされるエリを半ば無理矢理乗せてみたところ、人も通れないほど壁スレスレを走る様子を予想以上に面白がった。『メタボのおじさんがここにいたら挟まれちゃう』と大笑いしていたが、十二年前に卯藤と同じ路線に乗った時、彼も似たようなことを言っていた気がする。