LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)
だけど、その度に自分にはこの生き方しか出来ないのだと思い知った。一番思い出深いアルファマに店を出したのは覚悟のつもりでもあった。店を出したのは2年ほど前だが、どうにか軌道に乗って、今やっと自分の人生が腑に落ちてきたと…感じていた矢先に思いがけないことが起こった。
まさか…十年も経ってから、このリスボンで片岡誓と再会するとは。
今日、出来上がった菓子を手に店頭に出たら、やけに背格好のいい男が子供のように背中を丸めてショーケースの菓子に見入っていた。風貌こそ大人びていたが、その仕草は昔と変わっていなかった。「瞠」と呼んだ低めでよく通る気持ちのいい声も。逆立った堅そうな髪も。
彼と、紹介された彼の婚約者の前でどうにか平静を装ったが、足元が震えるのを抑えることができなくて…。
どうして…君は再びリスボンへ戻って来たんだ?
記憶の中にしかいないと思えばこそ耐えられるはずだった。実在する君と二度と会わなければ、どんな人生を歩んでいても自分の目には入ってこないのだから。
だけど君は再び俺の前に現れた。しかも美人の婚約者を連れて、この街で暮らすのだと言って…。
カタン、と辺りに響く物音が卯藤を我に返らせた。そういえば所用で少し店を抜け出していたのだった。
夕闇の中、目の前を小さな古びたトラムがゆっくり通り過ぎて行く。狭い路地の向こうに消えるまで、彼は呆然とその姿を見送った。
俺はまた振り出しに戻ってしまった。ようやく解放されたつもりだったが、それは自分で自分を偽っていただけなのだ。
俺は君が好きだ。今までも、そしてずっとこれからも…
だが君に、この想いが伝わることはない。片岡が生きている限り、俺の苦悩は続くだろう。
夕闇が運んできた冷たい風が卯藤の身体と心を凍らせる。
ヨーロッパの国々の中では比較的暖かいと言われるポルトガルでも、やはり冬は訪れて…そしてこの季節には一層、孤独感に苛まれるのだ。人生の殆どを孤独の中で過ごしてきたから慣れているはずなのに。
たとえほんの一時でも、人の腕の温もりに抱かれる幸福を知ってしまったからかもしれない。
代わりの誰でもなく、あの男でなくてはならないということも。
「…!」
夢から醒めてベッドの上で跳ね起きたが、まだ夜中のようだった。片岡は辺りを見回して深く息を吐いた。心なしか心拍が上がっている。額には汗も滲んでいるが、体温のせいなのか…冷や汗なのか定かではない。
傍らでエリが片岡の様子にも全く気づかずぐっすり眠っているのを見てほっとすると、再びベッドに横たわった。だが、すっかり目が冴えて眠ることはできなかった。
最悪だ。今更こんな夢を見るなんて。片岡はどうにか眠ろうと閉じた瞼を両手で覆って再び溜息をつく。
夢の中でセックスしていた。そして自分が口にした名前に自分で驚いた瞬間に意識が戻った。そして何とも後味の悪い気分になった。
彼が呼んだのは、彼の横で眠る女性の名ではなかった。
それは…昨夕、アルファマのカフェで再会したあの男の名前だったのだ。
十二年前、共にリスボンで生活をはじめた卯藤瞠とは、当初のルームメイトのような状態から…次第に恋愛関係に変わっていった。はじめに意識し始めたのは片岡の方だった。自分の気持ちを伝えても卯藤ははっきり拒絶こそしなかったが、片岡を恋愛の対象と捉えているかはわからず…特にセックスに嫌悪感を抱いているのが明らかだった。過去にあったことを思えば当然かもしれない。片岡は卯藤の心情を理解して待ち続けた。飽きっぽい彼にしては人が違ったような辛抱ぶりだったろう。
リスボンでアパートを借りて暮らし始めて半年経ったある日、卯藤がこの街で初めて職を得た。バイシャ地区のパステラリアの求人を見て店の人間にポルトガル語で何とか話しかけたら、忙しくて堪らないので取りあえず仕事に入ってくれと言われ見よう見まねで働いたのだ。しかし日本で元々飲食店の仕事を掛け持ちしていたせいか何となく段取りが理解できて、雇われることになったという。
片岡は早々にIT関連の企業に採用された。失業率が高い国だが、彼のようにポルトガル語や英語を流暢に話し、きわめて高いスキルを持つなら話は別だ。しかし日本人の上ポルトガル語が話せない卯藤は当然働けない。だから片岡が仕事に出ている間、家事を引き受けながらひたすら語学を学んでいたのだが、片岡に養われているという負い目が彼の感情を押し殺していたのかもしれない。仕事から戻った片岡にまずアルバイトの事を話すと、卯藤はやっと片岡の想いに答えたのだった。
本当は、自分もずっと片岡を好きだった。でも、言えなかったのだと。
ごめん、と呟いて恥ずかしそうに俯いた卯藤を抱き寄せた時の満ち足りた感覚を、片岡は今でも忘れられない。それまでに付き合った女性もいたが、あれほど誰かを愛おしいと思ったことはなかった。
あのときは離れることなど微塵も想像がつかないほど互いを欲して寄り添っていたはずだった。しかし…何故だろう?その想いが深く激しいほど、尽きる時が足早に訪れるのは…
リスボンに来て二年後に二人は別れた。特に諍いを起こしたわけではない。殆ど自然消滅だった。その原因は互いの感情が醒め始めてきたことと、生き方に対する価値観の違いがはっきりしてきた、といったところか。当時依然として上昇志向だった片岡は、次第にヨーロッパの片隅のこの街では大きな仕事を得られないことに不満を持つようになった。対する卯藤はリスボンの持つ穏やかで素朴な空気に魅力を感じていて、まだこの街で暮らしたいと思っていた。いくつか勤務先を変わった後、真面目で丁寧な仕事ぶりを気に入られて、リスボン市内でも特に有名な菓子店で菓子職人の修行をさせて貰えることになったいきさつもある。
片岡がリスボンを去ったのは月の半ばだった。二人で住んでいた部屋の家賃は月末分まで払い込んであったから、あとの半月は卯藤が別の小さなアパートを探しながらそのまま一人で留まることにした。
出発の日の朝、片岡が目を醒ますと、卯藤は仕事で既に出かけていた。
共同で使っていた小さなダイニングテーブルの上に、紙袋が置いてあったので中を開けてみると、ナタが数個入っている。卯藤は毎晩アパートに戻ってからも、キッチンで菓子作りの研究をしていた。これも多分試作品だろう。
片岡は卯藤からの餞別代わりだと解釈して、紙袋をショルダーバッグに納めて、正午近くに二年暮らしたアパートを出て行った。
正午を僅かに過ぎた頃、慌てた様子で卯藤がアパートに戻ると、片岡の姿はもうなかった。彼は落胆して溜息をついた。…片岡に借りていた旅費を返さなければならないことを思い出し、仕事を抜け出して戻ってきたのだが、すれ違いだった。
それを最後に、二人が再び会うことはなかった。
「ねえ…これって、先週入った卯藤さんのカフェじゃない?」
作品名:LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆) 作家名:里沙