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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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「これ以上気を悪くしたらすまん。でも、金さえあれば奴らを訴えてやりたいって言うなら、俺が無利子無期限で貸すから…」
 胸を張っていろ。卯藤は何も悪くない。
 片岡の言葉に、鉛のように重く澱んでいた卯藤の心が僅かに疼いた。
 今の自分はどん底にいる。せっかく見つけた比較的安定した仕事場も、こんなことがあってはもういられない。ぎりぎりで支払いできているアパートの家賃が払えなくなって、住む場所を失うかもしれない。そうしたらどうやって生きろと言うのか?
「片岡の言うこと…信じるよ。あんたはあいつらとは全然違うし…」
 彼がそう言ってくれるのは嬉しいと思う。自分だって、どうにか頑張って生きていきたい。だけど…
「だけど…俺…ちょっと疲れた」
 卯藤は虚ろな目をして、ぽつりと一言漏らした。
「正直…ここから逃げ出したい」
 うずくまったまま、顔を膝に埋めた。今まで他人の前でこんな負の感情を言葉にしたことはなかったが、もう止めることはできなかった。
「逃げたい…」
 片岡は卯藤の言うことを黙って聞いていた。暫く考え込んでいたのか、間が空いたのち片岡の口から出た言葉は意外なものだった。
「そっか……じゃあ逃げるか。二人で」
「え…?」
 思わず顔を上げて自分を見た卯藤に、片岡はにやりと笑った。
「俺さ、この学校、もうやめようと思ってるんだ。親父は俺に日本で仕事を見つけて欲しいみたいで…日本の大学で勉強してみろって言うから、ここには聴講生で入ってみたんだけどさ…何だか合わないなって」
「それで…どうするんだ」
「今まで行ったことがない国に行きたい。アメリカの大学院に行って資格を取ることも考えたんだけどな…」
 だから、行き先が決まったら一緒に来ないか。と片岡は言った。
「俺だって向こうの大学の勉強をしながら会社も作って、そこそこの規模にしたんだ。ホント、目が回りそうだった…瞠だって施設を出てからずっと働いてきたんだろ。だから、いいじゃないか、たまには逃げたって」
「そういう話じゃないだろ…だって俺には外国に行く金なんて」
「多少の費用なら貸してやるよ。だから無利子無期限の出世払いで。但し、いつか絶対返してもらう。それでどうだ?乗るなら、握手」
 どこへ行くにしても、瞠と一緒なら何だか面白そうだ。片岡はそう直感して右手を彼に差し出した。
 そんなことができるのか…?何より彼を信用していいのか?…でも、どのみち自分はどん底に突き落とされそうになってる。だったら全く違う所に行ってみてもいい。そして…片岡を信じてみたい。卯藤もおずおずと右手を伸ばした。
 二人の手が重なり、握り合わされた。暫く見つめ合ったのち、二人は声を立てて笑った。


          三
「誓が昔リスボンでルームシェアしてたっていうのは、あの人だったの?」
「え…?あ、ああ。そう」
 片岡はエリの声で我に返った。タクシーの車窓から見える景色はすっかり夕暮れだった。
「すっごいイケメンよね。優男だけど。歳は…誓よりちょっと若そう…別に比べてるわけじゃないわよ」
「構わないよ。まあ、あの頃から人目を惹く奴だったし」
 片岡はどこか上の空の返事である。あの男に出会ってから今までずっと車の外を見つめたままこの調子だ。
「もの静かで感じもいいし…結婚してるの?」
「さあ…そういえば聞かなかったな」
 思いがけない再会だったから驚くばかりで彼のことをあれこれ聞く余裕もなかった。少し話をしてエリを紹介して…それだけがやっとだった。
「…ねえ」
「ん?」
「…男の人にも、ああいう顔するんだ」
「何だって」
 独り言のような小声だったので聞き返したが、エリはこっちのことよ、と二度と繰り返さなかった。二人は黙ったまま、仮の滞在先のホテルへ向かった。
 まさか十年も経って…まだあいつがこの街にいたなんて。
 彼と別れて一人リスボンを離れてから、卯藤のことは過去の思い出になり、自分の人生にはもう存在しないはずだった。だけど卯藤の顔を見た途端、自分の心の奥で止まったまま埃をかぶっていた時計が一気に逆方向にまわりはじめて、当時の記憶があふれ出してきた。
 出会ってから、二人でリスボンへ来るまでのいきさつ。
 そして、この街で初めて見たものは…
「そうだ、エリ。まだトラムには乗ったことなかったんだっけ」
「トラム…って、あの黄色いおんぼろの市電のこと?ないわよ」
「明日の晩、不動産屋のホアキンに二人で夕食にって誘われてる。バイロ・アルトの辺りらしいから二十八番線ならそのまま行けるし。その前に…暗くなる前に乗ってみるか」
 電車には興味がないエリは当然口をへの字にして首をかしげた。
「それで…何か面白いことでもあるの?ていうか鉄道好きだったっけ」
「別にマニアとかじゃないけど…でもあれは絶対面白いって。君だって毎日リベルターデ通りの店ばっかり見てたら飽きるだろ」
「そうよ。ホントにすることないんだもん…ホテルの部屋にタウン誌みたいなのが置いてあったよね。何か載ってないかな。それと…住む場所も探さなきゃ。ホテルの近辺がわりといい住宅街なんだって」
「住むところは君の好みに合わせるよ。何ならラパを見て回っておいてくれ。昼間ならそれほど治安も悪くないし」
 文句を言いながら、エリも覚悟を決めたのか少しはリスボンでの生活について考え始めているのだと感じて、片岡は安堵した。

          ◆
 狭い路地を進んで行く黄色い小さな車両を見かけて、思わず二人で後を追いかけた。リスボンに着いた翌日、当面の宿に決めた安ホテルを出て、特に目的もなく街を散策していた時だ。片岡が買ったガイドブックに載っているカテドラルが見えたのでそれを目指して坂道を上っていた。朝方雨が降っていたが、宿を出る頃には小降りになり、じきにあがった。空気はしめって暖かく、時折日の光が差して心地いい日だった。丁度十二年前の今の季節だ。記憶ははっきり残っている。トラムに乗って子供のようにはしゃいで、古いアルファマの路地をぐるぐる歩き回った。今でこそアパートホテルやレストラン等観光客向けの施設も増えたが、当時は地元の住民が通うような古びた店や夜しか開かないファド酒場くらいしかなく、もっと寂れていた。だがその静けさが気に入った。そして、生まれて初めて生きていることが楽しいと感じた時だった。片岡とたわいない会話をしながら、時間に追われることもなく、二人肩を並べて歩いた。
 彼とはもう、その記憶の中でしか会うことはないのだ。そう思ったからこの場所に店を持ち、彼が大好きだった菓子を作って暮らしている。そして、仕事の合間の息抜きで時折ふらりと外に出て、坂道に腰掛けて空を見上げていると、どこからか彼の声が聞こえてくる気がする。「腹が減った」とか「どこからテージョ河の岸に出られるんだ?」とか…
 まるで記憶の残骸を踏みしめていくだけのような人生。一時耐えられなくなって、リスボンを離れたこともあった。結婚を考えたこともあった。