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LISBOA 記憶の欠片 1 (8/5加筆)

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 それよりも、穏やかな表情に自身の境遇を覆い隠して黙々と働く卯藤の様子がやはり気になるのだった。そこで時折、自分の講義がない時間と彼の仕事が終わる時間が重なるとさりげなく食堂に行って、自販機のコーヒーを奢ったりして話をした。卯藤もはじめは、何故聞いて驚くような経歴の片岡が気さくに接してくれるのか理解できず戸惑ったが、話しかけられればやはり嬉しかった。日々を生きていくのが精一杯で友達らしい友達もいなかったからだ。
 お互い打ち解けてくると、卯藤にも彼なりの夢があることがわかった。食堂の店長が彼を気に入っていて、何年か働いたら調理師の免許を取れるようにしてやると言ってくれたという。ここで働きながら免許を取って、少しずつでも金をためていつか小さな店を出したい、と彼は少し恥ずかしそうにうつむきながら語った。
「そう簡単に叶わないだろうけど…」
「そんなことない。諦めずに頑張れよ。諦めないことが一番大事なんだよ」
 卯藤が思った以上に前向きに生きていることを知って、片岡は何だか自分のことのように嬉しくなった。
「じゃあ、瞠は料理が得意なんだ」
「金がないから大したものは作れないけど、一応自炊はしてるよ」
「いいなあ。俺料理は全然ダメ…あ、そうだ。今度俺のマンションに呼ぶからさ、材料も買っとくから何か作りに来てくれよ」
 片岡の言葉に、卯藤は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。色白ですっきりと鼻筋の通った顔が少しくしゃりとする様子を片岡は可愛いと思ったが、今まで男を相手にそんなことを感じたことはなく、自分で言ったそばから照れくさくて目を逸らしてしまった。じゃあ、絶対呼ぶからと言って、片岡はそこで初めて卯藤と携帯の番号とメールアドレスを交換した。
 だが大学に編入して一年近く経ったその頃、既に片岡は日本の大学に見切りを付け始めていた。収穫になったこともなくはない。だが、これ以上有意義なことが学べるとも思えなかった。それに大人しく学生生活を送ることにも退屈してきて、新しいことを始めたくなった。…できれば別の国へ行ってどこかの企業か、NPOに勤務するのも悪くなさそうだ。彼は次の行き先をどこにするか迷っていた。
 そんなある夕方、片岡は講義でたまたま隣り合わせた男子学生に誘われてゴルフ部の部室で話をしていた。ゴルフ部に所属しているというその学生もまた、海外の大学を卒業してからここに編入したといい、そのせいか感覚が合って会話も弾んだ。外が薄暗くなってくると、彼は用があったことを思い出したと慌て始めたのでまず二人で部室を出た。走り去って行く彼の姿を見送りながら、特に急ぐこともない片岡は、ゴルフ部をはじめ複数の部室が集まるクラブハウスの中を観察するようにゆっくり廊下を歩いていた。三階建てのクラブハウスの建物は大学のキャンバスの敷地内にある。この時間、部室に人がいるクラブは殆どないらしく、廊下も薄暗かった。
 ゴルフ部は二階にあったので階段を降りてクラブハウスの出口へ向かおうとすると、一階へ降りた場所から向かって右の方から比較的大きな物音が聞こえた。誰かがひそひそ話す声も聞こえる。
 …その物音が何故かひどく耳障りで、片岡は思わず立ち止まって物音が聞こえる方に目を向けた。すると数人の男子学生が足早にこちらへ向かってきた。体格のいい男ばかりで、明らかに体育会系とわかる。
「おい。ここ、もう閉まるぞ。早く出てくれよ」
 やや横柄な口調でクラブハウスを出るよう促されて、片岡は癇に障ったが、いちいち気にしていても仕方ない。ああ、と軽く頷いて彼らと一緒に入り口を出た。男子学生たちはそのまま駐車場に続く通路に向かい、片岡は駅に続く道路へ出る道へ向かった。
 …が、少し進みかけた所で片岡は後ろを振り返った。もう彼らの姿は見えない。片岡は元来た道を引き返し始めた。彼らが小声で話していたことに胸騒ぎを覚えたからだ。あの場で面倒は起こしたくなかったので聞こえていない振りをしていたが。
―大丈夫かな…もしバレたりとか…
―平気だろ。あいつ学生じゃないし…何でも孤児らしいぜ。
―だったら何もできないって。
 灯りのついた窓は一つもなかったものの、クラブハウスの扉は施錠されていなかった。実際はまだ閉鎖時間ではなかったのだろう。片岡はもう一度中へ入り、既に消されていた廊下の電気のスイッチを入れた。
「…瞠?」
 入り口入ってすぐの階段の手すりに寄りかかるようにして卯藤が立っていた。だが、彼は片岡の姿を見た途端、怯えるように後ずさった。階段に足が引っかかりバランスを崩してその場に倒れるようにしゃがみこんだ。
「おい…大丈夫か」
 差し伸べようとした手を払いのけられ、片岡は驚いて卯藤を見つめた。顔が真っ青だった。
「いやだ…俺にさわるな…」
 声も震えている。いつもと全く様子が違う。
「どうしたんだよ?」
 卯藤は顔すら腕で覆い隠して階段の上で縮まっていた。
「あんたも…なのか」
「…何だって」
 消え入るような声で言われたことの意味がわからず、片岡は聞き返した。
「あんたが…俺に話しかけてきたのも…それが目的なのか」
「どういう意味だ…目的って何だよ」
 何があったんだ?片岡は卯藤の姿を見て違和感を覚えた。安物の木綿のシャツはボタンのかけかたも中途半端で、慌てて着たような感じだった。手に握っている濃紺のパーカーには固まった埃がついている。
 さっきの運動部員らしき連中の言葉と、目の前の卯藤の様子の関連について、片岡は考えを廻らせた。
 それが繋がった瞬間、背筋を氷のように冷たいものが走り抜けるのを感じた。
 そして震えがきた。こんな、歯の根が合わないほど身体が震えるような凄まじい怒りを片岡は未だかつて抱いたことがなかった。
「あいつら……そういうことか…くそ!」
 殴り倒してやる…!低く呻くように呟いて踵を返そうとした片岡を、今度は卯藤が止めた。
「やめてくれ…関わらないでくれ…だって俺には」
 彼らと戦える力がない。家族もない。誰も助けてくれない。
 それをわかっていたから、奴らも…
「泣き寝入りするっていうのか?そんなバカな!」
「それ以外にどうしろって言うんだ」
「訴えろよ…裁判を起こすとか」
「そんな余裕があると思ってんのか?弁護士を雇う金がどこにある?」
 小声で、だが吐き捨てるような口調で言われて、片岡は一瞬言葉を失った。彼の言う通りだ。己の甘さが情けなくて、彼も俯き右手で自分の顔を覆った。
 だが、これだけは誤解されたくない。
「なあ、でも俺は…瞠にそんな目的で話しかけたんじゃない。本当に話をしてみたかっただけなんだ。信じてくれ」
 片岡の言葉が涙で曇っているのに気がついて、卯藤も少し驚いた様子で振り返った。
 悔しくて、涙が出た。今まで自分には出来ないことなどないと信じてきたし、やりたいことをやってこられた。だが、それはただ恵まれていただけなのだと今になって思い知った。
 自分は何と無力だろう。目の前で苦しんでいる人間一人助けてやれない。
「ごめん…俺、こんな時に限って何も力になれないのか…」
「…片岡…」
 卯藤にとって片岡の涙は衝撃だった。自分のために誰かが涙を流してくれるなどと、今まで考えたこともなかった。