千に一つの青い森
私は部屋の奥にある、大きな掃き出し窓を開けた。窓の外には半円形のベランダがある。
「このベランダの下に広がっているのが、『青い森』です。」
私たちはベランダに出た。眼下に、満開の桜の森が広がっていた。
「ひゃあ、きれいですね。」
若い刑事が思わず感嘆の声を上げた。
「どうして、これが『青い森』なのですか。」
年配の刑事が尋ねた。
「ここを『青い森』と呼んだのは、この屋敷を建てた曽祖父です。ほら、あの人。」
私は母の部屋の壁にかかっている、ドアほどの大きさのある、等身大の肖像画を指さした。肖像画の曽祖父は気難しい顔をしていた。
「桃山唯勝。それが彼の名前です。彼は搾取の天才でした。彼は一族の長という立場を利用して、自分の妻の実家の財産を奪い取りました。妻に生活費を渡さず、毎月実家に無心に行かせたばかりか、妻の実家の実印を勝手に使って借金し、妻の実家を破綻させました。彼の妻と妻の両親は、この森の奥に粗末な小屋を建てて終の棲家としたそうです。その後3人は自殺したと、彼は笑いながら語ったそうです。
お恥ずかしい話ですが、これは彼の武勇伝として、恥ではなく、誇りとして語り継がれています。桃山家一族は、代々、人を傷つけ、搾取して富を得ることを、誇りに思っていました。自分たちは何をして許される、特別な人間だと信じていたんです。
彼は触手を次々と親類縁者に伸ばし、財産を掠め取って肥え太りました。そして散財しました。巨大な邸を建て、雑木林を開墾して、桜を千本植えました。しかし、収奪する親類がなくなると、桃山家は急速に没落していきました。
当時この村には、佐々木朔という名前の、優秀な青年がいたそうです。曽祖父はその才能を搾取しようと考えました。彼はこの研究所を建てて、その青年に、世界をあっと驚かせる大発明をしろと命令しました。
それが青い桜の花を咲かせることでした。御衣黄のような緑色ではなく、真っ青な花を咲かせろと言いました。曽祖父はここを世界でただひとつの、青い桜の森にしたいと考えていました。佐々木朔は研究室にこもって研究したそうです。彼はトリカブトの花粉を桜に受粉させて、品種改良していたと言われています。」
「それでここを『青い森』と呼んでいるのですね。」
「ええ。」
「で、青い桜の花の研究はどうなったのですか。」
「佐々木朔は志半ばで亡くなりました。ある秋の風の強い日、森の中で倒れているところを発見されたそうです。」
「どうして。まだ若かったのに。死因は何だったのですか。」
「トリカブトの毒が体に回ったと言われています。」
「なるほど、長年、トリカブトを扱っていましたからね。」
「そのために、青い桜の研究は途切れてしまいました。でも、佐々木朔が亡くなって10年後、彼が品種改良した木のうちの1本が、青い桜の花を咲かせたそうです。その時、曽祖父は90歳でした。彼は狂喜して、叫び続けたそうです。『私は世界を征服した。必ずこの森は青い桜で埋め尽くされる。やっぱり桃山家は世界一優秀な家系なのだ』と。彼は3日後に亡くなりましたが、最期まで、そう言い続けていたそうです。
どんなことをしても、青い桜の木を護れ、この森を青い桜で埋め尽くせ。それは彼の遺言になり、桃山家の宗教になりました。
私の母はその狂信的な信者でした。いつの日かこの森が青く染まれば、桃山家は復活すると、信じていました。」
その時、冷たい風が桜の谷を吹き渡った。桜の森全体がざわざわと揺れた。
~「さあ、よく見てごらん。」
母はベランダに出ると、子供たちの前で、両手を大きく広げた。
「いつか必ずこの森は青く染まる。先祖が咲かせた1本の青い桜がこの森を支配するようになる。その時こそ、私たち一族が世界を征服する時なのだ。ほら、真っ青な桜の森が見えてくるだろう。」
「うん、見えるよ。」
と、弟は言った。
「青いよ。森が真青だ。僕には青い満開の桜が見える。」
「そうか、そうか。」
母は弟の答えを聞いて喜んだ。
「それでこそ、この館の跡取りだ。世界に君臨する王になれる男だ。」
私は黙っていた。
「お前は答えなくてもいい。ばかだから。」
母はそう言って、私を睨みつけた。
「ばか。ばか。ばか。あはははは。」
弟は私を指さして笑った。~
「ところで、この森へ行くにはどうしたらいいのですか。」
若い刑事が私に尋ねた。
「どこかに近道がある、という話は聞いたことがありますが、私はその近道を知りません。この森に行くには、今日、上ってきた坂道を麓まで下りて、あの、立ち入り禁止の看板のあった、大きな柵の扉を開けて、雑木林を通っていくしかありません。」
動き出そうとした若い刑事を、
「今日はもうやめておこう。」
年配の刑事が止めた。
「もう、日が暮れてきた。森に迷い込むのは危険だ。」
それから彼は私にこう言った。
「では、明日の朝、9時に、あの森に行くことにします。道案内をしてください。」
「わかりました。ただ、」
「ただ、何ですか。」
「私は1度もあの森に入ったことはありません。」
「何ですって。20歳までここに住んでいたのに、ですか。」
「ええ。子供の頃は、怖くて入ることができませんでした。昔から、『風が吹くと、桜の森で人が死ぬ』という言い伝えがあったんです。実際に、この森に踏み込んだ村人が、何人も亡くなっています。」
その時、携帯をいじっていた若い刑事が年配の刑事に耳打ちした。
「何だって。」
「だから、宿が取れないんです。この近くには宿泊施設はありません。新城市まで戻らないとだめなんです。けれど、その新城市内も、『新城桜まつり』と時期が重なっているために、どこも満室なんです。」
そう言ってから、若い刑事はちらと私の方を見た。私はこう言った。
「よかったら、この屋敷に泊まってください。部屋ならたくさんあります。」
「そういうわけには。」
「ありがとうございます。」
年配の刑事は遠慮したが、若い刑事はあっさりと私の申し出を受け止めた。
「食事も用意します。」
そう言うと、私は1階の台所に向かった。2人の刑事もついてきた。
「いや、いくら何でも、食事まで世話になっては。どこかに食べに行きましょう。宿も探せば、」
年配の刑事が言った。
「行くと言っても、一番近くの食堂でも、片道1時間はかかりますよ。」
若い刑事が言った。
片道1時間。冗談ではない。またパトカーに乗せられて、見世物になって、1時間街中を走るなんて。
「とりあえず、台所を見てみましょう。」
と、私が言った。
「用意していただけると、ありがたいです。実費はお支払します。」
若い刑事が言った。
「では、遠慮なさらないでくださいね。」
そう言いながら、私は台所に入った。
「ここの台所は広いですね。」
年配の刑事が言った。
「ええ。かつてはお抱えコックが腕を振るっていたそうです。だからレストランの厨房なみの設備を備えています。でも、母は料理が嫌いでした。ですからおそらく、ここにある食材は冷凍食品だけです。」