すれ違い電話
仕事が終わると実乃梨は人目を避けるように退社した。同僚たちが有志を募って行くのとは逆の方向、実乃梨の給料では行くことのないレストラン。断る理由もないしむしろ嬉しい、しかしそれは自分の描いた航路の枠を超えてうまく行き過ぎていることが自分のなかでは未だに信じられず、自分には不釣り合いな場所に出入りすること自体が実乃梨には重く感じた。
夜景のきれいな窓際の席、あらかじめ予約された席に駿哉は座っていた。遅れてきたことには何も触れずに手招きしてここへくるよう呼ぶ彼をみて実乃梨はすまなさそうな様子で席に着いた。
座ったと同時に注がれる食前酒、目の前の駿哉がグラスを掲げるのを見て慌てて実乃梨も動作を真似るとグラスが重なる音がした。
「実乃梨さん……」
「はい……」
「僕たち、付き合って一年だけど、そろそろ結婚を考えないか?」
およその予想はついていた。駿哉と付き合い始めてそろそろ1年、その言葉を待ってはいないが意識はずっとしていた。
家柄も、人間としても彼は申し分ない。社内でも自分が社長の子であることを全面に出すこともなく、勤務態度はむしろ他の同期社員より低姿勢だ。どの方向から未来を見ても、彼と一緒になって不具合があるとは考えにくい。相手方の家族は別にして、実家の両親に話せば喜んでもらえるのはほぼ間違いない。
「はい、でも……」
しかし、実乃梨のなかで一つだけ引っかかるところがあるのだ。
彼とは関係を一度も持っていないのだ。
一昔前の社会であれば、実際にそういう間柄で結婚を決める風習はあったかもしれない。しかし、駿哉から出るオーラにはそのよなうな古いしきたりを大事にする感じはせず、父親である社長も常に
「時代に応じた新しい発想を持とう」
とスローガンを掲げているくらいだ。
わからない。それは異性と関係を持ったことがないという不安なのか、未だ頭から離れない他の異性がいるのか、とにかくほぼ問題が無い事柄に実乃梨は即答が出来ず、むしろ異常な不安を持っていた。
「何か、問題でも?」
テーブル越しに両手を取られ視線を奪われた。彼の目を見ると、何も言い返せない――。
「実家の両親にも相談、しておきたいんです」
「そうですね、父には言っておくのでまとまった休みを取ったらいいでしょう」
咄嗟に出た逃げのセリフ。それでも駿哉は何の疑問を持たずに実乃梨の意見はほぼ受け止めてくれる。ケンカどころか、口論になりかけたことすらない。
駿哉の手が離れると実乃梨は手を引っ込めてテーブル上の皿を見つめた。
この人で、いいのか?
見る人によれば誰にも気付かれないくらいの大きさの、ほんの小さな一点の曇り。一度気にした実乃梨の胸の頭には、逆にその事ばかりが引っ掛かって取れかった――。