すれ違い電話
大学卒業後、実乃梨は地元を離れ就職をした。
何の不自由もなく両親のもとで育ってきた実乃梨は、就職すれば家を出ることを決めていた。友達の考えにも大きく影響を受けたが最後の決断は自分でした。自他が認める温室育ち、自立するために自らが考えて動かなければならないことは大学の4年でしっかり学んだつもりだと自分で自分に言い聞かせる。
あれから玲士とは会っていない。あの日から彼は人を避けるようになり、そのまま残り少ない学生生活を終えた。大学も4年になれば授業で顔を会わす機会もほとんどなく、週に一度のゼミの授業にも彼は顔を出すどころか、卒業式のあとにあった謝恩会でもその姿を見ることはなかった。
総じて楽しかった学生生活、しかし初めて意識した異性に最低でもサヨナラの一言すら言えなかったのが唯一の心残りだった。地元を離れた理由の一つであるかと質問されれば実乃梨は否定しない。
* * *
夏の暑い昼休み、自前の弁当を膝に乗せ食堂で一人昼食をとっていた。
仕事は速い方ではない、昼食に入るのはいつも他の社員よりも少し後だ。食堂で並ぶという無駄な時間を短くするため弁当を持ってくるようになったのは生活の知恵である。さっさと食べて復帰してやっと追いつく――、そんな余裕のない毎日を過ごしていた。
実乃梨は右手に箸、左手に携帯電話を手に取り送り込まれていたメールを確認していた。大量に送られてくる広告メールの中に友人からのメールが2つ3つ。入社1年目くらいの頃は学生時代の友人から愚痴に近い近況報告がしばしばあったがそれも徐々に減り、今では職場の同僚や年齢の近い先輩後輩たちから出会いを求める駆け引きメールが多い。
「毎回変わり映えないなぁ……」
右手と口は動いたまま実乃梨は保存の必要の無いメールを消してゆく。実乃梨自身そんな出会い話にはあまり興味はなく、呼ばれていくことはあっても自分から段取りしたり行きたいと思ったことは今の今まで一度もなかった。
最後のメールを確認したあと、何の気なしに電話帳のアドレスを見た。大学のカテゴリを見るとその中に椎橋玲士の連絡先がある。
今ではたくさんいる大学時分の知人の一人であるが彼の番号だけが当時の下宿の番号だったので、携帯電話の番号が並ぶ中で一人だけがどうしても目立つ。本当は彼の携帯電話や実家などの連絡先を聞きたかったのに、あの雨の日から会うこともないまま今になってしまった。ゼミ友の響子を介して聞くことはできるだろう、でも実乃梨は邪推されることを嫌ってなかなか踏み出せないまま今になっている。
繋がることのない電話番号、実乃梨の携帯電話には消すことができないまま今も残っている。
心の中にいる自分が何かを言っている。分かっているが敢えて聞いていないフリをする。その理由は分かっているのにそれも分からないフリをしている自分が許せない――。
食事を終えて弁当箱の蓋を閉めたところで電話が鳴り出し、実乃梨はすかさず応答した。
「もしもし、工藤です」
「ああ、僕だけど」
ここ最近頻繁にかかってくる電話。3つ年上の先輩社員である森本駿哉(もりもと しゅんや)からだ。
現在の身分は実乃梨と同じ社員であるが、駿哉は社長の御曹司、将来を約束された身分だ。しかし鼻に掛けた調子は全く無く、物腰が柔らかく社内での評判はすごく良く彼を悪く言う者は実乃梨の知る限りでは聞いたことがないくらいだ。現在の部署は違うのだが、去年の今頃あるプロジェクトで一緒に仕事をしたことをきっかけに、駿哉の方から連絡をよこすようになって現在に至っている。
「今日、空いてるよね?」
「……はい」
明確な線引きはないが実乃梨は駿哉と交際している。社内で知られれば注目の的になってしまうので、そのことは誰にも知られていない。
付き合う相手として何の問題もないのだが、疑問が無いわけではなかった。
実乃梨は社内でも仕事がバリバリ出来るとか見た目が良い方だとも思わない。大勢いる社員の中の平凡なラインにいるごく目立たない存在の相手が会社で知らない者はいないような人物と特別な関係にあることに自分自身が信じられない。簡単に言えば不釣合いなのだ。
「それじゃあ、いつものところで」
実乃梨は返事をすると携帯電話を閉じた、時計を見る地と予定していた休憩時間が過ぎている。慣れた手つきで弁当を片付けて人よりも早くに自分の机に戻ることにした。