すれ違い電話
ニ 眼前の悪夢
悲鳴に近い叫び声がスタンドに響き、それはこだまのように繰り返した。それとは対照的にフィールドを挟んだ向こうのスタンドでは歓喜の声援が響き渡り、赤い波はハウリングしてはこちら側に打ち付ける。
眼前の悪夢。残り2秒、確実に決まると思われた距離のフィールドゴールが外れた。入れば逆転優勝だった、それが、外れたのだ。
応援団吹奏楽部としてスタンド下段でフルートを構えていた工藤実乃梨(くどう みのり)は、その一瞬の出来事に事態が把握できずキッカーが蹴った瞬間にファンファーレである応援歌を吹こうとしたくらいだ。騒然となっているスタンド、それが今まで何とか維持し続けた覇権を完全に明け渡すことを告げるものであると知ったのは周囲の泣き叫ぶ声が認識できた時だった。
「そんな……」
実乃梨は真正面に目を遣ると茫然自失で立ちすくしている二人の姿が目に入る。キッカーの丸山とホルダーの椎橋だ。
椎橋は同じゼミのクラスメートだ。1年生の時から知る級友の当初のイメージは、明るい気さくな男でよく試合を見に来てほしいと言われたものだった。控えのクォーターバック、実乃梨にはそれがどれ程のポジションか知らなかったが誘われて見に行ったり、応援団として駆けつけるうちにルールを覚え、その位置がフットボールにおける花形の一つであると知った。
ところが、次の年は怪我でシーズンを棒に振りその次の年には後輩のクォーターバックにスターターの座をゆずることになり、徐々に目立つような存在ではなくなっていったのは実乃梨だけでなく、彼女の友達も思っているところだ。
毎日顔を合わせていた1年生の頃、あの時は右も左もわからないでただはしゃいでいたあの時が楽しかった。中学から女子校で育った実乃梨にとって椎橋玲士という男は初めて男性として意識をした人物だった。そして、彼もまた、自分の事を意識していたいうことも、それとなく感じていた――。
しかし、それだけだった。それ以上、そしてそれ以下のことは無かった。
それから彼は怪我をしてシーズンを棒に振り、実乃梨自身も上級生になるにつれ部活の幹部となり学業との慌ただしい毎日で、時間は光のように速く過ぎて行った。授業などで顔を会わせることはあるが本当にそれだけで、玲士は黙々と練習をに励むにつれて作戦上の秘密もあって次第に寡黙になっていった。
彼については直接ではなく、同じゼミで親友の響子が彼氏である理志を通じて聞くことが多くなる。
「僕らは三人で、一組。トビーが投げて、
ゼロがセット。だから僕は、蹴るだけ。
タイミングや風向き、そんなのは全部
ゼロが合わせてくれる」
キッカーとしてリーグを代表する選手である理志は自身がキックするボールを寸分狂わずセットする相棒を
「フィールドの立役者」
と評する。実乃梨は頭のどこかにいつもいる玲士がそう思われていることを自分のことのように誇らしく思っていた。
今年のシーズン前に二人で会う機会があった時、玲士は実乃梨の前で
「詳しいことは言えないけど、スペシャルで(パスを)投げるシチュエーションはちゃんと想定している」
と話していた。お互いに共通する話題がないので話すことはだいたい自分たちの近況だった。もっと話したいことはあるのに、それでも満足できるくらいの気持ちの余裕はあの時にはあった。
彼はまだクォーターバックとしての気持ちを捨てていなかった。その準備と練習だけは欠かさずに続けているのは聞いていたので、第4ダウンにアッと驚くトリックプレーつまりはたとえ一プレーをでも注目を浴びる瞬間ををいつも期待していた。
しかし――、チームがそのプレーを選択するシチュエーションは、最期まで来ることはなかった。そして、最初で最後のミスで彼らの4年は終わりを告げた。
勝てば今まで封印してきたものを一気に解き放って、覇権の奪還を共に喜び会えると思っていたが、とうとうその日は来ることがなかった。
実乃梨も雨に向けて天を仰いだ、試合に敗れたことにではない。彼の報われる姿を一度だけでも、そしてその先を見たかったのにそれが叶わなかったことにだ。流す涙は誰にもわからない。スタジアムは隣も、後ろも、男も女も関係なしに一年の終わりを宣告され涙を流していた。
「校歌ーーっ!」
一向にゆるまない雨の中続くセレモニー、その最後で雨の中同じ位置で立ち続けた詰襟学ランの応援団長が叫ぶと最期まで凛として音頭を取る団長の姿に一同は静まり返り、実乃梨も目を開きフルートに口を当てると、サイドラインで微動だにせず立っている40番の背中を見て元の眼光を取り戻した――。