すれ違い電話
十 ありがとうね
玲士と実乃梨が一緒になって、時間はあっという間に過ぎていった。それぞれ仕事は忙しいながらも遣り繰りでき、背伸びをしない地道な生活を送った。二人にはそれで満足できたから、それ以上のものを望むことはなかったというより、今の毎日こそが求めていた日常だったのかもしれない――。
二人は幸せかと聞かれれば今なら迷いもせずに幸せだと答える事ができる。安心という大事なものを回り道を繰り返してやっと手に入れた。
そして、家族も増え、二人は親になった。
* * *
天気のよい冬空のある日、玲士と実乃梨は日頃着ることのないかしこまった服を着て子供たちを連れて街にくりだした。
「それじゃあ、僕たちは先に駅で待ってるから」
「ゴメンね。用件済ませたらすぐに追い付くね」
玲士は両掌を合わせる実乃梨を見ながら、両手につながれた子供たちの手を引き、妻を残して駅の方へと向かっていった。
実乃梨も駅の方に向かって離れて行く姿に手を振り見送ると、その姿はすぐに都会の雑踏に紛れ、の波の向こうに埋もれていった――。
玲士たち家族は今日、ある人物から仲人を頼まれて子どもたちを実家に預けて、ここから式場に向かう予定であった。二人に仲人を頼んだというその人、それは40yds.のかつての看板娘だった蓮井帆那だった。
* * *
「お願いします、マスター」
その年の夏の暑い日、帆那は夫となる人を連れて40yds.にやって来た。帆那は大学を出たあと、地元に帰って会社に勤めていたが、学生の頃知り合った相手は40yds.にもよく出入りしていたフットボール部のホルダーだった学生だった。玲士が練り上げて、結局使うことがなかったプレーを実行しチームの優勝を決定付けたその男だった。
玲士は帆那と部の後輩には負い目があった。帆那とは過去に一回だけの関係を持った事があったし、部の関係者に対しては自分の中では長い部の歴史の中で在学中に唯一リーグ制覇をすることなく終わった学年だったからだ。
「でもさ、帆那ちゃん……」
「いいんです。私はマスターにお願いしてるんです」
「私からもお願いします」
いきなりの懇願を聞いてうろたえる夫を見て、実乃梨は思いきって一言玲士に声を掛けた。
「いいじゃない。おめでたいことなんだから断っちゃバチが当たりますよ」
「でも……」
実乃梨は膝の上で拳を作る玲士の手を自分の手を重ねた。
「この二人は、アナタにお願いしてるんですよ」
そう言うと玲士が横を向いて妻の顔を見る。そうなることを予想していた実乃梨は目で夫の動きを封じ、静かな笑顔で応えて見せた。
「これは、二人のためなんですよ」
「でも、やり方とか全くわかんないよ」
「いいんです。マスターであることが大事なんです!」
帆那の声で二人は顔を前に向けた。それから実乃梨が横を見ると、長い間過去を引きずっていた夫の顔が完全に吹っ切れたように頷いているのが見え、思わず微笑んでいた――。