すれ違い電話
九 三猿堂
二人の気持ちがつながるのにそう多くの時間はかからなかった。というより、今までずっと繋がっていたのをお互いが認めないまま時間だけが経っていたようにも見えた。
しかし、実乃梨は自分の明るい将来のため、しばらく夫のもとへ通う生活が始まった。それはこれまでの関係を精算するためで、いろいろな手続きや分配の問題が山積していて相当の期間がかかったが、玲士は決して急かすことなく、じっくりと待つだけでなく手伝えることは献身的に尽力したかいもあり、実乃梨は新しい生活を夢見て折れることなくすべてを精算することができた。
そして実乃梨は晴れて実家に帰ることができると程なくして、実乃梨は玲士のもとへ通うようになり、40yds.の常連客となった。
玲士の様子の変化に帆那はすぐに感付いた。彼女はそれを表にも出さず、これまでのことは自然にタブーになって行きつつも互いが大人になるにつれ、そんな出来事もフェードアウトして行き、これまで通り帆那は店の看板娘としてアルバイトを続けた。やがて彼女に本命の彼氏ができたことで、あの時のことはほぼ記憶の向こうに埋もれて行った――。
* * *
全ての処理が終わるのに一年半を要した。それでもお互いが納得いく形で縁を切ることができたようだ。そして、玲士は何も言わず最後まで見守っていたのを感じた実乃梨は過去の繋がりをそこで終わりと決め、すぐに二人は結婚することにした。
その後も実乃梨は、離婚歴があることを後ろめたく思っていたが玲士の包容力に次第にそれはなかったかのように自然になり、二人がつながる頃には間にあった垣根は無くなっていき、玲士も切り盛りする「40yds.」の経営も何とか軌道に乗って来た。
* * *
そんな土曜の昼下がり、授業がなくても大学は静まることもなく、周辺の下宿の学生や部活やサークルで登校する学生で界隈は賑わう。地元で仕事を見つけた実乃梨は仕事を終えたあと、今日は玲士が店に一人でいると聞いた実乃梨は閉店作業を手伝いに40yds.に立ち寄った。
「クーちゃんが来てくれると助かるよ」
玲士は昔のあだ名で妻を呼ぶ癖は治らない。今日もふと気が緩むとそれが口からこぼれ出た。
「それより、その『クーちゃん』ってのはやめましょうよ」
「それもそうだな。今はそうじゃないんだからね」
二人は顔を見合わせると一旦時間が止まり、そして笑いあうと、カウンターの裏で店の電話がコチコチとランプが点滅しているのに気づいた。
「留守電入ってるよ」
実乃梨が合図をすると玲士はすぐに電話のところに立ち、着信歴を確認した。
「しかし、留守電ってのも今は使われなくなったものだな」
そう言いながら閉店作業の流れの中で再生ボタンを一押しした。内容は海外からの急がない商談話で、手を止めるほどのものでなくただ聞き流していた。
「そうね。今は携帯電話もメールもあるもの。でも、ないがしろにしちゃあ、ダメですよ。ゼロさん」
実乃梨は指一本を玲士の目の前に立ててメッの顔を作った。玲士が急がないと分かっていて放っておいたのを見抜いたようだ。
その指に視線が合わさると、二人の違う記憶が一つの線となった――。
「そういや、忘れた頃に入ってる電話って、なかった?あたしも曖昧なんだけど、あなた以外にもそんな事があったような……」
実乃梨は思い出したように玲士に問い掛けると、玲士はボタンを押そうとしたところで手が止まった。
「どうだったっけなあ……」
そしてカウンターの中で玲士も腕を組み記憶の旅に出た。
「あった!あったよ」玲士の頭に閃いたものがあった。表情が一瞬明るくなった「僕のじいちゃんから、あった。すでに亡くなったあとなのに忘れたように一件だけ」
玲士が指をパチンと鳴らす音が店内に反射した。
「それって……、今思えば」玲士がカウンターから身を乗り出すと、ホウキを持った実乃梨も首をカウンターにせりだした。
「『すれ違い電話』だったってこと?」
「そういや、そんな名前だった!」
頭の中に一度はあったがあの時以来一切出てくることのなかった単語が二人の間に突然閃いた。
「そうなんだ、もしかしたらそうかもしれない――」
学生の頃、玲士の試合を見にがてらに祖父は何度か玲士の下宿を訪ねているその帰り道、あそこへ寄っていた若しくは偶然見つけたのなら――。
「行ってみましょうよ。あのお店」
「そうだな。行ってみようか」
「でも、どこだったっけ?」
二人の動きが止まった。記憶に浮かんだ店のたたずまい、しかしよく知る町にある筈なのに何故かその場所だけがどうしても思い出せないのだ。
「とにかく、町にあるのだから今度練り歩いてみましょうよ」
「そうだな、ひょっこり見つかるかもしれないね」
玲士ははははと笑うと止めるのを忘れたシンクの水の音が店の中に響いた――。