すれ違い電話
「ゼロさん!」
玲士はスタンドの前の方から自分を呼ぶ声が聞こえた。その声は忘れる筈がない。最後に会ってから3年が経っても。
声の出どころを探そうとスタンドの下方を見ると、群集の中で一人だけこちらを向いている女性がいる。
「クーちゃん……」
緊張とかドギマギした感覚は自然と沸き起こることはなかった。玲士は自然に、昨日まで毎日のように授業で顔を合わせていた時のように手を振り返していた――。
* * *
第4ダウン 敵陣11ヤード地点 残り5ヤード
試合終了まで 1分15秒
大歓声と拍手の中、キッキングチームが送り出された。これで決めれば再び5点差。タッチダウンでなければ逆転されなくなる。
キッキングチームの縦ラインの3人が別れて陣形を作りセットすると、玲士は横で両手を組んで祈っている実乃梨の膝を軽く叩いた。
「私は応援団だったから、いつもあの位置をから見てた」
実乃梨は10ヤードのライン辺り、今ホルダーが膝をついているその位置を指差した。
「ゼロさんがPAT(ポイント・アフター・タッチダウン)でセットするのがちょうど正面くらいでね、いつも見てた」
玲士は実乃梨の指をまっすぐ伸ばし、そしてラインと平行にスタンドに引っ張ると、吹奏楽団が最前列で陣取っている。
「そういや、あの時……」何かを思い出した。視線がフィールドに戻ると、チームは最後のタイムアウトを選択し、ゲームが止まった「目が、合わなかった?」
「あの時?」
玲士はハッとして実乃梨の方を向いた。彼女の言葉で遠い昔に置き去りにして忘れようとしていた記憶がフラッシュバックした。
「緊張したあの場面で、確かにゼロさんの顔が見えた。ヘルメット越しだったけど、本当は何か思い詰めたような……」
「ああ……」
玲士が答える間もなくボールはスナップされた。33番のホルダーの手に渡ったかと思うと即座に地面にセット、それと同時にキッカーは足をしならせてボールを蹴り始めている。
会場じゅうからワッという声が上がるのを聞いて二人はフィールドに目を移した。
二人はつられて瞬時に視線を移した。キッカーがボールを空振りしたのだ。そして一斉に右に走り出すライン。しかしキッカーだけは真っ直ぐ前に走り出した。
「あ、ああっ」
沸き起こるスタンド。フォーメーションが崩れるまでボールをセットしたままのホルダーはタックルを一つかわして走るキッカーの前方に山なりのパスを投じた。
「きたっ、取れ!取ってくれ!」
キッカーは相手ラインの頭上を超えて飛び上がったボールをキャッチすると、誰もいないエンドゾーンに向かって一気に飛び込んだ。スタンドは総立ちになり、今まで淡々と仕事をこなしてきたキッカーがこれまで封じてきた感情を一気に破るような雄叫びをあげると、その声は見ている者たちの心の中に突き刺さるように響いた。
「あれだよ、あれ!」興奮気味の玲士も立ち上がり、エンドゾーンを指差した。あれこそが玲士が学生だった時、練りに練り上げて作ったプレーコールだ。
何度も何度もそれが当たり前のようになるまで繰り返し練習し、いつか使うことがあると信じて封印してきた1プレー。それは10年もの間受け継がれ守られて、ついに満場の中で公開された。そして成功するまで一切そのそぶりを見せなかった後輩たちを讃えると玲士の目からは自然に涙がこぼれた。
残り時間、9点という差、そしてモメンタム。長らく遠ざかっていた勝利がほぼ確信できた瞬間だった。
相手の攻撃も不発に終わり、残り時間はわずかとなった。クォーターバックのニーダウンが繰り返される。あとは試合終了を待つばかりだ。
カウントダウンが始まった。あと数秒で長らく明け渡していた覇権がこちらに還ってくる。スタンドにいる者は肩を組んで喜びあった。年齢、性別、出身校など関係なしにそこにいる者すべてが。玲士も何も考えずに、横にいる実乃梨と肩を組んでいたことに気付いたのは選手が整列し、実乃梨にそっと声を掛けられてからだった。
「あ、ごめん……」
「いいんだよ」
玲士は実乃梨の横顔をチラ見して、その顔がこっちに動こうとした瞬間に悟られまいと目を逸らせた。
本当に思ってることは譲るな
誰かの声が聞こえた。その主が誰かとかではなく、自分が言うことが何なのかは分かっていた。でも言っていいのだろうか.その主は玲士の意思などお構いなしに彼の肩を押した。
「ウチの店、来るかい?」
しばらくの沈黙が生まれたのち、実乃梨は小さく頷いた。