すれ違い電話
実乃梨は気が付けば実家に向かう電車に乗っていた。ほとんど着の身着のままの状態で。何をしていいのかわからない、しかし帰るところはそこしかなかった。
結婚してからの五年、何不自由ない生活をしてきた。欲しいものはほぼ手にいれることはでき、身の回りのものも次第に高価なものになった。人に羨まれることで自分を何とか保ってきたが気が付けばかつては近くにいた者はすべて遠くなり、夫さえもいなくなると自分は完全にひとりぼっちになっていた。
築きあげた幸せはただのまやかしでしかなかった――
目に見えるもの、手にいれたもの、手に入らなかったもの、 そのすべてが今の実乃梨には中身のない空虚なハリボテのようにしか見えなかった。実乃梨が失った代償は大きなものであったことを改めて知らされた。
そして――、
これまでの生活は高い身分にいると思われていることに喜び、それを得意気に思っていた自分がいることに気付くと、人が自分に向けられた目は憧れなんてものではなく、呆れにも似た、鈍感な自分を哀れむものに思えてきた。
「どこで、間違ったのだろう――」
電車はどんどん町を離れ、実乃梨の育った町に向けて近付く。あの町で見せてきた嫌いな自分を少しでも速く忘れたくなった。
* * *
駅を下りたと同時に漏れ出て来るような懐かしいにおい。この街にはあの時に置き忘れたものがまだ残っている。この町はここはどんなに変わった人の心も大きく包んで許してくれる――実乃梨はそう思いたい、そう思わないと前に進むことすらできない、そう考えては実家への道を一歩、一歩と進んだ。
「ただいま――」
実乃梨は家に帰りつくと誰もいない。まだ現役の両親は未だ仕事から帰って来ずで、妹は去年に大学を卒業して実乃梨と同じようにこの家から独立した。かつて自分がここに住んでいた頃は必ず誰かが留守を守っていていたが、時も流れ時代も変わりそれぞれがそれぞれの道を歩んでいる。
しかし、玄関の戸を引いた瞬間から溢れ出す温かさは今も昔も変わっていない。実乃梨はここ数年間無意識にまとっていた鎧を外した。誰もいなくても自分の家に帰ることの意味が改めて分かるとこわばり続けた表情も自然に解けていた。
これからのことなど考える余裕も両親に本当のことを話す覚悟も今は、ない。しかし今の実乃梨にはここを原点として再び始める以外の方法はない。それでも、実家の滲み出るような雰囲気にほろ酔いのような気分になり、今日だけは忘れられても、明日になればまた歩み出せるような根拠のない確証、これまで嫁いでいた生活の中で結局見つかられなかったものがここにはあった。
実乃梨は一通りの荷物を下ろし、息を吐いて仕切りをつけると、雰囲気で入ってきた実家の情報が視覚を通して入ってきた。
リビングに通じる廊下の途中、暗い中で一つだけ小さな薄赤色のランプがコチコチと点滅している。留守番電話のメッセージが入っているようだ。最初に気付いた者が聞くのが工藤家のルール、実家を離れた実乃梨も当然含まれる。
「そういや、以前にもこんな事ってあったっけ……」
実乃梨は過去に似たような状況があったことが強制的に思い出された。確かあの時、誰だか分からないおそらく年上の女性が実乃梨の名前を最初に呼んだ。
「あの時ああ言われたけど状況は良くなって、ないよ――」
そう言いながら喋りたそうなテンポで光るボタンを押して、今まで塞いでいた電話の口を開放させてやった。
「本当は面と向かって言いたかったけど、
でも、伝えておきたかったので伝えたい
と、思います」
「え?ゼロさん――?」
実乃梨の手が急に震え始めた。そして、間を置いて沈黙している電話器の向こうから大きく息を飲み込む音が聞こえた。その声、その仕草、忘れるはずがない。その声は自分のココロの中のどこかにいた椎橋玲士のそれに間違いなかった。
「何で?何で今頃……?」
実乃梨が最後に玲士とあったのは5年前だ。あの時も共通の友人を介して会っただけで、以後全く関係は途絶えたままだし現在どこで、何をしているのかさえ分からない。なのに、なぜ?そして、ここに?
実乃梨は驚くよりも続きが聞きたくなり神経を耳に集め電話機に耳をすませた。
「今日は会えて嬉しかった。そして、
ずっと気になっていた。でも、今の身分では
僕に資格なんて、ない。だから……。
自分の思う一番幸せな選択をして欲しい、
それが僕の望みです」
暫しの無言が幕間を作った。
この伝言は、最後に会ったあの時の後であると記憶の欠片がパズルのようにひとつに繋がった。詳しくは思い出せないうえ真偽のほどは定かでないが、実乃梨の記憶ではあの日あの場所の近くにそんな伝言を預かってくれる場所があったことを思い出した。
玲士が息を吸い込む音が漏れ、幕間が終わる――。
「それと、知ってもらいたかったんだ。
クーちゃんいがいたから俺、救われた。
怪我して腐った時もあったけど、
クーちゃんがいたから俺……、俺、
最後までフィールドに立てた。
ありがとう、いまさらだけど……
ありがとう、僕には大事な存在です」
実乃梨はその場に立ったまま前にも後ろにも動けず、無感情に照らす電話機の微かな光を見つめていた。
「なんで、何でこのタイミングなの――」
暫くの間ノイズがすると、機械の方から物理的な音で電話が切断される音がしてツーツーという感情のない電子音が聞こえ、最後に電話機が実乃梨に声をかけた。
「今さら……遅いよ」
メッセージの再生を終了しました――