すれ違い電話
六 告知
実乃梨は一人で部屋の掃除をしていた。夫は早朝から出勤し、起こされることなく朝を迎える。
「いいんだよ、自分で管理できるから朝はゆっくりするといい」
と言って見送りもしない妻を悪く言うことは五年が経った今まで一度もない。
半分羨まれ、半分妬まれの寿退社。将来の社長婦人とというチケットを手にいれたことは確かに悪くない。家で一人見るテレビのドラマはあくまで物語であるが、多くは順風満帆とは行かない、夫が酒乱だったり、浪費癖があって貧しかったり、舅姑の仲が悪いなど、実乃梨の生活にはそういった類いの障害は何一つない。強いて言えば掃除する部屋が多いということくらいだがそれも贅沢すぎる悩みだ。
ただ、想像していた結婚生活とは到底かけ離れているのだ。いくら箱入り娘で育ってきた実乃梨でも今の結婚生活が世間一般のそれとは少し違っていることくらいは分かっている。
未だ、関係を持っていないのだ――。
そして実家から離れたところで生活しているため、相談できそうな相手もいない。実乃梨は一度だけ駿哉に迫ったことがある。夫婦になっても関係のないことに我慢が出来なかった。
「好きじゃないんだ。子は、欲しくない」
優しく断られ、それを強く言えない実乃梨はそれ以上の要求をすることはなかった、というよりも、そうできないように相当以前からコントロールされていているような気さえしていた。
100点満点で言えば99点の生活、しかしその一点の重みは日に日に99点よりも重くなっていった――。
* * *
掃除を終えた実乃梨は着替えをして車に乗った。行き先は街の中心にある雑居ビルの中腹にある喫茶店。窓から都会の喧騒が見下ろせる位置にあるが実乃梨の視界に客はおらず、カウンターで風采の上がらないマスターが一人グラスを磨いてる。
実乃梨はそこへ来るよう指定されてここへ来たのだが、この通りでは実乃梨の衣装がどうしても目立ってしまう。
「あの……」
「お連れの方でしたら、あそこに――」
マスターは首で店の奥を示した。カウンター横のパーティションの向こうに先客はいることを無言で告げるとなにも無かったように実乃梨から視線を逸らした。
「――どうも」
実乃梨は小さく頷いて店の奥につかつかと進むとパーティションにもたれ掛かる、ボロのスーツを着たマスター以上に風采の上がらない中年の男が頭をかきむしりながら何やら資料を読んでいる。
「ああ、どもども」
実乃梨の足音に気付いた男は頭を挙げて実乃梨を一瞥すると向かいの席に座るよう勧めたと同時に、後ろからやって来たマスターが透明のティーポットに入った紅茶が書類でスペースの少ないテーブルの上に置かれた。
「まあ、これ飲んで落ち着いて下さいな」
男は用意されたカップに紅茶を注ぐとほのかな香りがこぼれるようにわき出た。
「調査の結果ができましたが、説明しても構いませんか?」
「――ええ」
実乃梨は紅茶の香りを一度確かめてカップに口をつけた。
「覚悟は、できてますから――」
「そうですか、それでは……」
男は実乃梨が依頼した探偵である。たった1パーセントの疑問が実乃梨を動かし夫の素行調査を依頼させた。
男もカップに口を付けては資料の山から一冊のファイルを出して見せた。実乃梨が見せられたのは写真で示された夫の最近の行動だった。
「旦那様は確かに勤勉な方です」
出勤時、仕事中、そして退社から帰宅まで。最近一ヶ月の行動がメモと写真で説明される。実乃梨が直接聞いた彼のスケジュール、出勤時間、毎日メールで送られる帰る際の報告と実際に帰宅する時間に矛盾がない。
「しかしですが、これをご覧になれば、すべてお分かりになると思います」
次に男はPCを開けた。映し出された動画は夜の街で見かけた夫の車おそらく帰り道だ。彼は途中で実乃梨もよく知っている秘書を下ろして帰ることを知っている。
「次です」探偵はタッチパッドを滑らせた。
実乃梨の把握している通り、車は秘書宅の前の画像に変わった。
暗がりで詳細には判然としないが助手席に人影があるのはわかる。そして、その助手席の人物が降りてきた。
「彼は、長年主人を支えてきた秘書ですよ」
「そうですね。私も把握ずみです」
実乃梨の説明に男は頷いた。
続いて運転席から駿也が降りてきたかと思うと、後方から秘書の肩を掴んで呼び止めてたところで男は動画の再生を一度止めた。
「よろしいですか」実乃梨の首が縦に振れるのを見て動画は再び動き出す。
「あ……」実乃梨は息を呑んだ「覚悟はしてましたが、予想はしていませんでした――」
動き続ける映像に実乃梨はすべての思考回路が停止した。
二人はその場で抱き合い、唇を重ねているのだ――。