すれ違い電話
「三猿堂……?」
初めて見るのにどこかで見たようなたたずまい。もしかしたら記憶の深いところで繋がっているのかも知れないが、自分の記憶の奥底にたどり着くだけの時間も体力もない。欄干に掘られた立派な三匹の猿がそこから上がってきてこちらを手招きしているようにさえ見える。
「ちょっ、と……!」
実乃梨は先を歩いていた家族を呼ぼうとしたが既に駅の方へ行ってしまいその声は街の喧騒にフェードアウトした。三匹のうち二匹の猿の視線を感じ、足がスルスルと動き出し意識した時には店の引き戸を引いていた。
* * *
「いらっしゃいませ」
足を踏み入れて一歩、実乃梨はカウンターに立つ店主に声を掛けられた。白髪頭の初老の男性、背筋も身なりもしゃんとしていて店の小ぢんまりさとは裏腹に高貴さを感じる。実乃梨は店主の優しい声かけの言葉に立ったまま動きを奪われた。
「何を、お探しで」
「いえ……、特に」
実乃梨は視線を店内に向けると、所狭しと商品が並んでいる。食料品や日用品、アクセサリー類まで雑多に並んでいる。そしてそのどれもがキレイに整えられており、店主の目がしっかり行き届いているのが一目瞭然だった。
「何か言いたいことがおありのようですね」
一通り店内を見回したあと、店主と目が合った。店主は顔色一つ変えずに口元を少し緩め、喉から出るしっかりとした声で実乃梨に答えた。
「なんだろう、この人?」
話がつながらない、というより行間が大きすぎて実乃梨には即座に理解ができなかった。
店主の表情はしっかりしていて目に嘘も冗談のかけらもなく、実乃梨を捕らえて離さない。口は真一文字でしっかり閉ざされていて、さっきの言葉さえ口からではなく脳に直接話しかけたかのようだ。実乃梨の心の中を読まれたかのような気持ちになり、店主の顔をみたまま動けなかった。
「それでしたら、この電話をお使いください」
「電話、ですか?」
こちらの反応なぞ全く気にしない様子で店主は話を続け、カウンターの横にある紅い色をしたダイアル式の電話に手を添えてそれを実乃梨に勧めた。
「はい、この電話は『すれちがい電話』と呼ばれているものです――」
「すれちがい電話……?」
古ぼけた赤電話、ダイアルを回してかけるものであることは実乃梨も知っている。昔はこれがどこの通りにも見られたものだが、しかし実乃梨は実際に使ったことは一度もない。
「はい」店主は表情を少し緩ませた「この電話は今ではなくても、相手の気が向いた時には必ず伝えることが、できます」
「今で、なくても?」
実乃梨は言ってることの意味が全く分からずに視線を電話から店主に移した。
「はい」
「私も機械のことですからよく分からないのですが、案内に従ってください。知らなくても伝わるようです、必ず」
「え、ええ――」
店主の言っていることがまだ靄にかかったようにスッキリしない。
「どうされますか?」
実乃梨は即答した。本当かどうか分からない、そして残された時間もそう長くない。自分自身は数時間後に違う名前になるのだ、これが本当に伝わるか否かの問題ではなく思っていることを残しておくべきだということに迷いはなかった。
「それでは、この受話器をお取りください」
店主は実乃梨に受話器を渡すと馴れた手つきで覚えている番号をダイアルした。「どうぞ」の手振りで実乃梨は受話器に耳を当てると感情のない声が聞こえてきた。
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ご利用の方は『1』を、そうでない方は……
実乃梨は戸惑いながらもアナウンスを聞き終えて1をダイアルした。
発信音のあとに1分以内にメッセージをどうぞ
受話器からオルゴールの音楽が小さく流れ出した。連絡先も相手も何も質問がない。カウンターの向こうで商品の整理をしている店主はこちらを向いていない。
ピーッ
実乃梨は条件反射のように頭を回転させると、頭の中に真っ先に浮かんだ人物が出てきた。考えるいとまなど、ない。しかし今思い付いたこと思い付いたまま言うべきと頭の中にいるもう一人の自分が命令をしている。
「私、今日結婚するんだ。だけど、一つだけあなたに
言っておきたいことがあるんだ」
「いろいろ、考えた。今までで、一番。
いろいろ、悩んだ。今日のことよりも」
「4年生の時のあの日以来、沈んだゼロさん
見るのが辛かった」
「それと、最後に会ったあの日、
本当は、本当は……、サヨナラだけでも言いたかった、
違う。本当は、本当は……、」
実乃梨は大きく息を飲み込んだ。じっと見守る店主しかいない店内で、周りのことなど気にしないで大きな声が店に響いた。
「あの時……、あの時、待ってたんだからね」
ピーッ
そう言い終わるとほぼ同時に電子音が鳴った。実乃梨はたっているだけでも鼓動が速くなっているのを感じ、肩で息をしていた。
「おや、大丈夫ですか」
「はい……」
店主が驚いて後ろから肩をつかむと、実乃梨の力は抜けるように落ちて、手から逃げるようにすり抜けて落ちた受話器はカウンターの下で地面すれすれのところでだらしなくぶら下がっている。店主がそれを拾い上げようとすると、受話器から最後のアナウンスが流れたのちツーツーと空しい電子音が鳴り出した。
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