すれ違い電話
工藤実乃梨としての最後の朝を迎えた。我が家に最後の礼を言って、父が玄関に鍵を掛けると家族四人は揃って駅のある方へ並んで歩み出した。
親に手を引かれてこの町に来たのが最初、それから何度となくここへ来た。記憶が次々と浮かび上がる、自分はこの町に育てられた。嫁いでしまえば今度いつここへ戻ってくるのか分からない、そう考えると実乃梨は急にこの界隈を一人で歩きたくなった。
「ねえ、みんな。ちょっと……いい?」
一人足を止めた実乃梨は3歩前を歩いていた3人を呼び止めた。
「最後のお願い、あるんだ。駅まで……一人にしてもらっていいかな?」
並んで立っている三人はハッとしてお互いを見合わせたあと小さく笑い出した。
「そうだな、いろいろ思うこともあろう。時間までゆっくりしてからおいで」
「新幹線の時間は、わかるわね?」
「じゃあ、先に行ってるよ」
実乃梨は両親と妹に手を振って別れた。新幹線の時間まではまだ少しある。残された時間を自分の内面に充てることを決めた。
* * *
実乃梨は一歩、また一歩進むたびに自分の記憶の内側を探った。移り行く町並み、出会った人、ここにいるとその時代が見え、その時に会った人が自分に声を掛けてくれる。
「プリクラ行こうよ」
「あそこのランチ、食べ放題なんだよ」
「あのお店、かわいいグッズいっぱいあるよ……」
そのどれもが懐かしい。そして通り抜けたスポーツカフェ、誰もいないが実乃梨の記憶にいる人物を呼び覚ますのに十分だった。 椎橋玲士、大学の頃気になっていた男――。今日結婚式を挙げ人の妻となる今この男の残像が甦ることに後ろめたい何かを感じた。
実乃梨は意識してかき消そうとするが、あの時、そうだ、最後にあった日のことが頭に浮かぶ――、そして
「ええ、何でも――ないよ」
あの時、玲士に自分が言った最後の言葉が甦った。実乃梨は結局玲士には自分が結婚することを伝えていなかった。彼は今何をしているのかは知らないし伝える術を持っていないからどうにもならないことは分かっていたが、今さらになってその存在が頭から離れない。
「やっぱり……言うべきだったんだ」
実乃梨は自分を責めた。集合の時間は遅くなることも速くなることもなく着実に近づいてる――。
やきもきしながら駅に向けて通りを歩き続けた。対向から来た人混みを避けて歩道の車道側に押し出されると、その勢いで歩道上に転がっているゴミ箱を蹴っ飛ばしてしまい実乃梨は慌てて足を止めた。
ゴミ箱はどうやら車に当てられへしゃげていて、電柱に紐でくくりつけていたのだろうがその紐が切れている。
実乃梨は呆れ顔でゴミ箱を起こしてやり電柱の脇に立ててやった。
「あら……」
へしゃげたゴミ箱が顔の形に見え、お礼を言われたたような気がした。良く見れば脇腹に小さく「三猿堂」と書かれている。実乃梨はそれを見て脇の建物を見た。
都会の真ん中にポツンと一軒だけ建っている小さな商店、ここが街になる以前からずっとあったと思われるそのたたずまいに実乃梨はさっきまで廻っていた自分の記憶と擦り合わせてみたが、この町に何度も来ているのにこんな年季の入った建物を見た記憶はどこにもなかった。まるでこの建物が建っていた時代に自分がタイムスリップして引き寄せられたとさえ思えた。
「ここは……、どこ?」
実乃梨は店を見上げた、看板の下の欄間に掘られた立派な三匹の猿がこちらを向いている――。
ここで実乃梨の時間が一瞬、停止した。