すれ違い電話
四 「あの時、待ってたんだからね」
実乃梨は駿哉と結婚することを決めた。結婚を承諾するか否かは基本的に当人同士の問題である、しかし結婚するとなると家の問題は決して無関係ではない。自分の家、相手方の家、そして自分自身を天秤に乗せてみた。どう考えても不釣り合いだったが、断る理由もない上、愛されて結婚することが望ましいと自分も家族も意見が一致した。
しかし、たった一つの疑問点
一度も関係を持っていない
その事だけは実乃梨の頭から離れない。純白のヴェールに付いたたった一点のシミ――。それがあるために余計にその事ばかりが気になっていたがそれは時間が解決するだろう、そう思っていた。
* * *
先週、会社には退職届を出した。羨まれての寿退社、その後実乃梨は身辺整理を済ませ自宅も引き払い、結婚式の日までの数日間実家に帰ることにした。残された数日間は、親戚回りと地元の友人と会うとあっという間に過ぎていった。
そして結婚前夜、実乃梨は実家で過ごすことに決めていた。両親とまだ大学生の妹とでテーブルを囲んで食事をとった。これも自分の中で決めていた。
「いつも通りでいいからね。これが最期の別れじゃないんだから――」
とお願いしたにも関わらず母は豪勢な料理で娘の最後をもてなし、父は明らかに違う様子で黙って箸を動かしていた。
実乃梨が大学を出るまでほぼ毎日こうして卓を囲んで食事をしていた。それも、今日で最後だ。工藤実乃梨は明日には森本実乃梨となる。ひと口食べる度に今まであった事を思い出し、悲しくなる。本当はおめでたい事の筈なのに、懐かしさと、温かさがほろ苦さとほんのりの酸っぱさに変わりとうとう箸が止まった。
「あの……、お父さん、お母さん」
実乃梨は声をゆっくりと搾り出した。いつも通りでいいと願ったのは自分なのに全体の雰囲気に呑まれ我慢ができなくなった。実乃梨を見守る家族、食卓は一瞬だけ静かになった。
「まあまあ。そんなしんみりせんと帰りたくなったらいつでも帰っておいで。かじるスネは僅かばかり残っておるから」
沈黙を破った父はそう言って娘の肩をポンと叩いて寝室に入っていった。本当はさびしい気持ちをごまかして笑う父の背中を見て、実乃梨は深くお辞儀をすると後ろに構えていた母と妹に抱きついて嗚咽をあげた――。