短編集 1
爪
真夏のこの時間帯は妙に空々しい。
改札口を通りこしそれぞれの方向に散ってゆく人の群れ。
様々な方角から改札にむかい、やがて一塊となって電車に乗り込んでゆく別な群れ。
二つのうねうねとした群れが汗ばみ蠢きながら移ろってゆく。
胎動にも似た暗い孔の中を男根にもにた列車が無表情に何度も行きかう。
それに乗り込む人々の群れは、どの顔も一様に無機質で未だ個性をもたないスペルマのように思える。
それはオーバムが待っているはずの世界へと向かう、不安さを纏っているかのようだ。
その個性なき群れの中に混じり、意味なき本能的に仕事へと向かう俺も彼らと同じようなマスクに覆われているのだろう。
たどり着いた世界は地下鉄の中の不安な暗さとは違う、真夏の日差しに照らされたいつものオフィス街だった。
見慣れたビル見慣れたはずのエントランスの入り口で見慣れない受付の横を通り過ぎる。
中途半端な空調に汗がひくこともなく、情事のあとのようなべたつきに、オレは少し辟易していた。
圧迫感が充満しているエレベーターに乗り込み、見覚えのあるドアを潜ると、仕事とゆう名のウンザリとした世界が広がっていた。
「お早うございます、課長」
無表情な眼鏡越しの視線がオレに声をかける。
聞き覚えのある声で、聞き覚えのあるはずの抑揚を伴って。
「ああ、今週も頼むよ」
いつもどおりの会話が続く。デスクにと座り業務をチェックしはじめると、先程の声が白く細やかな腕で資料を差し出してきた。
伸ばした爪が控えめな色で塗られている。
確か一昨日の夜には、もっと艶かしい色でオレの背中に痕をつけていたはずだった。
その声も情欲に満ちて、熱い吐息とともにねっとりと囁いていた記憶が刻まれている。
やはりこの世界は、其処とは違うのだろう。
「…駄目ですよ課長、まだ週の始めです。…でも…課長がお望みなら…いつでも…」
思わず見つめ続けていた爪先に気づいたのか、先程の抑揚のない声がオレに向かって囁いた。
少しだけ淫靡な笑みを忍ばせて。
「…なら、仕事のあとにでも食事でも」
オレもさりげなくそう答える。
そのまま握られていた資料を受け取るその控えめな爪にそっとふれながら。
どうやらこの世界にもあちらへの入り口が開いているらしい。
うんざりとした此処にも多少は見直すところがあるようだ。
頭を切り替え仕事にと没頭し始める。
そう、帰宅して何かに没頭し家庭とゆう世界をやり過ごすかのように。
ビルの窓から垣間見る外の世界は、眼を覆いたくなるような青すぎる空と押し寄せる白い雲が厚く見下ろしていた。