はじまりの旅
さて、霊峰御山を背にし、一行が向かうのはコンタイ国の東端である。大陸唯一の港町ティグリミップである。ティグリミップまでは歩いて2週間以上かかる。
御山から離れるほどに気温が上昇し、周りの自然も生気に満ちていく。ティグリミップまでの道中2週間ほどは、このジャングルの中での野宿を強いられた。たまにジャングル内の小さな集落に辿り着くことがあったが、御山の麓の集落よりも時代遅れの集落だった。土とヤシの葉で作られた簡素な住居が数件立ち並んでいるような集落である。一見すぐ壊れてしまいそうな質素なつくりの家屋で、地面もヤシの葉の絨毯が敷かれているだけであまり外と変わらない。しかも寝るときはそのまま床に雑魚寝するだけだ。
とは言え、集落に世話になる場合はニタがお土産と称して狩りをする。大抵の住民は喜んでくれて、食事もご馳走してくれるが、クグレックはあまり好きになれない味だった。ニタのサバイバル料理よりは手が込んであるが、主食の芋をペースト状にしたものが口に合わないし、虫も食材として扱われている以上、クグレックはどうしても好きになれない。ディレィッシュやハッシュ、ムーは特に抵抗なく食べているというのに。
クグレックは毎晩毎晩、ふかふかのベッドやお風呂、味のある食事といったものを魔法でなんとかすることはできないのだろうか、と考えるのだが、そのような魔法を彼女は知らないので、むなしさと共に眠りにつくのだった。
歩くこと2週間。
クグレックは周りのジャングルの景色が徐々に開けてくるのを感じた。
頭上を覆っていた樹木の枝や葉が少なくなり、その存在自体も少なくなってきている。草木をかき分け開けた場所に出ると、そこには樹木で遮られることなく気持の良い青空が広がっていた。そして、不思議な臭いを伴った風が吹き抜けて来た。ディレィッシュはすんと鼻でその匂いを嗅ぐと
「海が近づいて来たな。」
と、呟いた。
「海?」
ニタはその呟きに耳をピクリと動かして反応した。
「ニタは海を見たことがなかったか。」
意外そうにハッシュが言った。
ちなみにクグレックも海を見たことがない。それどころか湖や大河と言った広い水辺も見たことがなかった。
「ティグリミップまでもう少しです。この先は平野が続くので歩きやすくなっていますよ。…あれ?」
ムーが遠くの方に視線を向けながら首を傾げた。
ムーの視線の先にはぽつんと存在する立て看板。近付いて見てみると『知らない人には着いて行ってはいけません』という注意書きがあった。さらに、その文の下には小さい文字で『特に紅い髪をした人には注意』という表示が。
「なんだこれ、変な看板。」
と、ニタ。
「しかも『紅い髪の人』って随分と限定的だな。人さらいが横行しているのか?こんなのどかな国で。」
と、ディレィッシュが言った。
「治安が良くないのかもしれないな。強盗が出て来るかもしれないな。気をつけよう。」
と、ハッシュが言う。
ニタは『強盗』という言葉に反応し、気合が入る。ニタの中では悪即成敗なのである。
「ククも、俺達から離れるなよ。」
ハッシュにそう言われてクグレックはこくりと頷いた。
そうして歩くこと数時間。辺りは茜色の夕焼けに照らし出されていたが、幸いなことに道中強盗に襲われることなく安全に港町ティグリミップに到着した。その港町はこれまで立ち寄った野生的な集落とは異なり、しっかり整備された町だった。白壁にヤシの葉の屋根の住居が立ち並び、地面も石畳で整備されている。
暫く町中を歩き進む。町はのんびりと昼間の営みを片付けており、クグレックら旅人一行にあまり興味を示そうとはしなかった。彼らは仕事を終わらせて夕飯にありつきたいのだ。
そして、本日の営みを終えようとしてる街並みを抜けるとニタとクグレックは感嘆した。
石畳の階段を下りればそこはもう白い砂浜だった。
砂浜の先には海が広がる。二人が生まれて初めて見る景色だ。
果てしなく続く水平線の先に溶け行く夕日は海を茜色に染め上げていた。
ざざーん、と寄せては返るさざなみの音と汗の匂いの様な嗅いだことのない不思議な匂いが二人を刺激する。
「うみ…。」
ニタが呆然として呟く。クグレックは言葉が出て来ない。夕日が沈みゆく海に釘付けだ。
そして、ニタはクグレックの手を取り、急に走り出した。突然のことでクグレックは転びそうになったが、なんとかニタに合わせて着いて行く。
「うははっ。海だ。ねぇクク、知ってる?海の水はしょっぱいんだって。飲んでみよう!」
そうして二人は砂浜を駆け抜ける。が、クグレックは砂に足を取られてとうとう転んでしまった。
「あ、クク。」
ニタは振り返る。クグレックは顔中砂まみれにしてよたよたと立ち上がり、「ニタ、先に行ってて。私も行くから。」と声をかけた。ニタは「うん」と頷くと再び走り出した。
クグレックは顔や体に付いた砂をぽんぽんと払ってニタの後を追いかけようとする。が、ふとディレィッシュ達のことが気になり後ろを振り向いた。すると、驚いたことに、ディレィッシュがうずくまっていた。ハッシュとムーが心配そうに声をかけている。ディレィッシュに何かがあったようだ。
「ニタ!」
クグレックは海でじゃぶじゃぶ走り回っているニタに声をかけて、ディレィッシュの異変を伝えた。ニタは物足りなさそうな表情を見せたが、クグレックと一緒にディレィッシュ達の元へと戻った。
ディレィッシュは顔を真っ赤にして息を荒げている。苦痛に歪んだ表情で、今にも倒れ込んでしまいそうな状況だった。
「ハッシュ、ディレィッシュは一体どうしちゃったの?」
クグレックが尋ねた。
「分からない。突然苦しみだしてこんな状態になった。熱があるみたいなんだ。クク、ニタと宿を探してくれないか?」
「分かった。」
クグレックは頷き、ニタと宿屋を探し回った。
すぐに宿屋は見つかり、体調を崩したディレィッシュはすぐにベッドに寝かせられた。
汗をだらだらかき、顔を真っ赤にしてぜぇぜぇと息は荒い。風邪とはまた異なる状態に一同は不安になった。
宿屋の主人もディレィッシュを心配して、水やおしぼりを持って部屋に入って来た。ディレィッシュの様子を見た主人は険しい表情でむう、と唸り声をあげた。
「おじちゃん、どうなの、ディレィッシュはだいじょうぶなの?」
ニタが尋ねると、主人は躊躇いがちに
「この兄さんは突然具合が悪くなったんだね?」
と、尋ねた。ハッシュは「はい」と答える。
「うーむ。だとすると、アルドブ熱かもしれないな。」
「アルドブ熱?」
「ジャングルにいるアルドブ虫という蚊みたいな小さい虫に刺されると発症する病気だよ。とはいえ、大人は抵抗力が強いからここまで酷くはならないんだけど、小さな子供や稀に虚弱体質だったりするとひどくなる場合があるんだ。たぶん君たちも刺されていただろうけど、大丈夫だろう?」
ディレィッシュは魔が抜けて、体力が著しく低下していた。クグレックよりも体力がない状態だったので、アルドブ虫に抵抗できなかったのだろう。
「…治るのか?」