はじまりの旅
とトリコ王は言い、咳き込みながら吐き続けるクグレックの背中をさすった。だが、その行為はクグレックに更なる不安感を煽るだけとなり、嘔吐感は止まらなかった。それどころか、トリコ王の手がクグレックには気持ち悪く感じられ、これ以上触らないで欲しかった。
ぐっと近づくトリコ王の体。
――近寄らないで。私に触らないで。離れて欲しい。
クグレックは心に強く拒絶の気持ちを念じた。バチと大きな音がしたかと思うと、トリコ王が吹き飛んだ。クグレックの周りでは静電気がパチパチとなるような音が断続的に発生している。これがニタが言っていた「バチバチ」なのか、とクグレックは思った。
「ふむ。美しい力だ。」
トリコ王は吹き飛ばされ、尻餅を着いた状態であるにも拘らず、自身に流れたバチバチを嬉しそうに感じ入っていた。
「黒魔女、貴女は成熟しきっていないがために、自らの力を制御することが出来ない。その証拠がこの魔力の放出だ。」
吹き飛ばされたトリコ王は再び立ち上がり、ゆっくりとクグレックに近付く。
クグレックの周りにはパチパチと目に見える形で静電気が発生している。トリコ王はその静電気を間違いなくその体に受けているが、全く気にしていない様子だった。
「何も知らない貴女に教えてあげよう。貴女は黒魔女。人の心に巣食う闇や魔を増幅させ、闇の世界の者達に力を与える存在だ。その力は黒魔女が纏う空気に等しく、意図せずとも発揮されるものだ。黒魔女の力を手中に収めさえすれば、全ての魔を支配することが出来るほどに強大な力を持つことができる。」
トリコ王がクグレックに近付くにつれて、静電気は強くなっており、バチバチとつい光と音を発する。
「黒魔女の力を手に入れるためには、2つの方法がある。1つは魔女と魔の契約を交わす。2つめは黒魔女の血を飲み、心臓を喰らうことだ。ただ、魔女は殺すと灰になってしまうから、特別な力で血と心臓を喰らわなければならない。」
クグレックから放たれる静電気は一層激しさを増していった。クグレックはしゃがみ込み、体を震わせながらも必死にトリコ王を拒絶する。クグレックから放たれる魔力の放出は確実にトリコ王に当たっているはずなのだが、本人には何の影響も及ぼさない。
代わりに、静電気はエネルギー制御装置に接触し、次々と装置をショートさせていく。ショートした装置は火花を上げ、黒煙を燻らせた。
すると、同時に照明が点滅し始め、警報が鳴り響いた。
――緊急事態、緊急事態、深部管理ルームにて異常発生、緊急事態、緊急事態…
かつてのクグレックが夢の中で聞いた警報音と同じサイレンと放送の音声。
クグレックは、はっとして、今いる現在が夢なのかもしれないという疑問に包まれた。どうやって今の状態を現実だと判断できるのか。そもそも、いまクグレックが存在しているこの世界も、現実かどうかはっきりしていないのだ。彼女は一度炎に包まれて死んだはずだった。だから、彼女にとって彼女のいる世界は現世感を持った黄泉路なのだ。
ただ、この黄泉路は彼女の意志に関係なく、容赦なく厳しい出来事が襲い掛かる。
クグレックは、意識を手放そうとしたが、その瞬間、強い力で頭を掴まれたかと思うと、辺りは靄に包まれるようにして暗くなっていた。警報音も次第に遠のいていく。
それとは逆にクグレックの意識ははっきりしていった。
クグレックの精神が落ち着きを取り戻し、現状の把握に頭が働き始めたのだ。
周りは全くの無音状態で、クグレックの呼吸音しかしない。
そして、真っ暗である。光の無い、闇の世界。
不思議なことに、クグレック自身はしっかり見える。手や衣服も灯りがある時と同様に視ることが出来るのだ。そして先ほどまでクグレックが感じていた体調不良もなくなっていた。
(ここは、どこなの?)
真っ暗な中を歩くのは、不安だった。床が視えないこと、それだけでも恐怖感を感じずにはいられない。一歩進めた先に床があるとは限らない。底の見えない奈落かもしれない。
ふと向こうの方に、誰かがうずくまっている姿をクグレックは確認した。
この暗闇の空間に誰かがいるのだ。
暗闇の中を歩くのは怖かったので、這いつくばりながら前進した。向こうに見える人物が気になって仕方がなかった。
腕だけでなく脚の力も使った情けない形の必死な匍匐前進をして、クグレックはその人物の正体に気付いた。艶のある流れるような金髪にトリコ王国の白い衣装を身に纏ったこの人物はディレィッシュだ。
「ディレィッシュさん、起きてください。」
クグレックはディレィッシュを揺すった。ディレィッシュは青白い顔をして気を失っていたようだったが、しばらくすると「うう」とうめき声をあげて、意識を取り戻した。
はじめのうちはぼんやりとした表情を浮かべていたが、クグレックに気付くとゆっくりと表情を和らげた。下がり眉で微笑むその表情はクグレックに会えて嬉しいというよりも、申し訳なさそうな様子だった。
「クグレック…。ごめん。」
「どういうことですか?」
「闇に潜んでいた『私』を制御出来ずに、ただの客人であるお前を巻き込んでしまった。お前をこんな空間に呼び寄せてしまったのは私の責任なんだ。」
ディレィッシュは静かに目を閉じた。
「でも、クグレックはここから出なくてはならない。なんとかして、ここから出してやる。」
再び力強く見開いたその水色の瞳は、弱々しさが掻き消えて、自信に満ち溢れるトリコ王の瞳に戻っていた。
クグレックはこのディレィッシュこそ、最初にあった時のディレィッシュだということを実感した。きっとマシアスやイスカリオッシュ、クライド達が好きなトリコ王ディレィッシュなのだ。闇だの魔だの言っている狂人とは違う。
クグレックは思わず心の声を口にする。
「本物のディレィッシュだ。」
「さよう、私がオリジナルのディレィッシュだ。」
ディレィッシュはクグレックを見つめて、ゆっくりと頷いた。
「じゃぁ、あのディレィッシュは何だったの?」
「クグレックが見たディレィッシュは、ずっと私の中に巣食っていた闇であり、魔だ。クグレックはこんな経験ないだろうか。窮地に立たされた時、湧き出る諦めの思い。嫌な気持ちになった時に感じる相手への嫌悪感。そう言ったふつふつと生れ出るネガティブな感情全てが、彼なんだ。無論、私だって人間だから、負の感情は勿論感じる。ただ、彼は魔なのだ。そう言った負の感情を彼はさらに増幅させようと私に語りかけてくる。だけど、私は彼の言葉を無視し続けて来た。彼の言うことは私の世界にとって、面白くない。つまらないものだったから。」
(…私だったら、ネガティブな方に流されると思う。)
クグレックは負の感情に従順だった。負の感情に押しやられ、生きることを放棄したし、誰かが瀕死の状態でいても、恐怖が勝って助けるどころか動くことすら出来なかった。
「でも、彼は素晴らしい力を持っていた。勿論私だって、機械に関する知識や技術は世界一だと思っている。私のことは『天才』と称されるが、その通りだと思っている。統治に関しても正直他国の為政者にも劣らない。だが、彼は情報操作という素晴らしい力を持っていたのだ。」
「情報操作?」