はじまりの旅
第7章「ハワイにて」
「船の旅もいいね。海風が気持ちいいよ。」
甲板にて、荷物が入った木箱に腰掛けながらのんびりとニタが言う。
「うん。気持ちいいね。」
クグレックもニタに追随する。過ごしやすい気温に爽やかな青空、頬を撫でる海風は普段は内向的なクグレックの心を開放的にさせる。
ハワイ島まではなんと丸一日もかかる距離にあるらしいが、船上の旅は非常に穏やかで楽なものだった。
ところが、クグレック達の旅はそんなに楽なものではない。
「2時の方角から黒雲が近付いて来るぞ。客は船室へ!」
船員が大声をあげて避難を指示する。
船が進む方向が局地的に禍々しい黒い雲に覆われているのだ。先ほどまでは爽やかな青い空が全体的に広がっていたというのに。局地的に黒い雲に覆われた海は荒々しく波打っている。
「迂回すればいいのに。」
と、ニタが呟くが、不思議なことに船は黒い雲のもとへ突っ込んで行く。いや、船が近付いているのではなく、黒い雲が猛スピードで近づいて来ているのだ。
「嬢ちゃんとこぐまちゃん、早く船室へ!」
船員があまりにも切羽詰まった様子で叫ぶので、ニタとクグレックは慌てて船室に戻った。
突然の事態にニタとクグレックは事態を呑みこめないでいる。
「一体何が起きようとしているんだ?」
と、ニタ。
「わかんない。でも、黒い雲が近づいて来てた。」
クグレックはまるで生き物のように近付いて来る異常な黒い雲のことを思い出し、恐怖した。
「ニタも海のことは良く分からないから、ムー達に聞いてみよう。」
3人がいる客室に向かおうとしたその時、どん、と大きな音と共に船体が大きく揺れた。その揺れは立っていられない程大きな揺れで、クグレックとニタはコロンと倒れて尻餅を着いてしまった。
「まさか、船、沈まないよね?」
「そんな、まさか。」
船は酷く揺れ、ニタとクグレックは不安げに顔を見合わせる。
「クク、ニタ!」
客室からハッシュが現れた。
「あ、ハッシュ。なんか黒い雲がやって来て、大変なことになったみたいだよ。ディッシュは大丈夫?」
「あぁ。なんとかベッドにしがみついている。」
「そう。」
ニタは自力で立ち上がることが出来たが、クグレックには無理だった。ハッシュがクグレックの手を取り、壁まで移動させた。
「ククは一旦客室に戻ってろ。ニタ、外に出るぞ。」
「え?船乗りのおっちゃんが危ないから中に居ろって。」
「いや、黒雲が来た。船乗りたちの援護をするぞ。」
「え?もう、一体どういうこと?」
「黒雲は魔物を引き連れる。」
ハッシュはそう言って甲板に出ると、ニタも状況を解しないままだったがその後に続いた。
残されたクグレックは、激しく揺れる船に再び転げてしまうが、どうやら甲板には魔物が現れてしまっているらしいことを聞きつけ、よたよたしながらハッシュたちの後を追った。
甲板に出ると、空は夜が来たように暗くなっており、強い雨と風が吹き付けていた。波も轟音を立てて、激しい白波を上げている。時折雷鳴も轟く光景はこの世の地獄のようだった。
更に目の前には、幼児ほどの大きさで、つるりとした表面にひれとえらがある二足歩行の生き物が数体ほどおり、船乗り達と交戦していた。勿論ハッシュとニタも戦っている。
クグレックも揺れる船体にふらふらしながら、背中のケースから杖を取り出す。
目の前の見たこともない生き物は2足歩行ではあるが、魚のように見えた。半魚人というのだろうか。クグレックはふらふらしながら、標的に向かって杖を剥ける。
「イエニス・レニート・ランタン!」
炎の魔法を唱えれば杖先から火の玉が放たれ、半魚人にぶつかる。じゅうと音がして、半魚人からは焦げた匂いと焼き魚の様な香ばしい匂いが発せられた。
(もっと、火力を強くしないといけないのかな)
そう思いクグレックはさらに魔力を込めて炎の魔法を放とうと呪文を詠唱するが、杖からは何も放たれなかった。魔法が使えないことに戸惑うクグレックだったが、少し焦げてしまった半魚人がクグレックのことを察知し、襲い掛かって来た。クグレックはもう一度魔法を放とうとするが、どうしても魔法が放たれない。
半魚人がクグレックにその刃物のように鋭利なひれを叩きつけて来る。クグレックは防御するように杖を前に構えて、きゅっと目を瞑った。
ばきっと音がし、痛みも何もないことにクグレックはおそるおそる目を開くと、目の前にはハッシュの姿があった。もう何度この背中を見たことか。
「危ないと言っただろ。海に投げ出される危険がある。船室に戻れ!」
と、ハッシュに怒鳴られたのと、揺れる船の衝撃でクグレックはびっくりして尻餅を着く。尻餅を着きながら、クグレックは杖を握り魔法を放とうとしたが、やはり出来なかった。自身が役に立たないことを察したクグレックは這いつくばりながら船室へ逃げ込んだ。クグレックはディレィッシュ達がいる部屋に戻らず、その場にしゃがみ込んだ。心臓がバクバクと鳴る。魔女の力を忌み嫌うことは多々あれど、魔法が使えないことは魔力切れの時を除いては一度もなかった。魔法の力がなければ、クグレックはみんなの役に立つことが出来ないではないか。
やがて、船の動きが落ち着いた。
クグレックはずっと甲板へ出る扉の前でしゃがみ込み項垂れていた。
がちゃりと扉が開き、外からの光が差し込むと白いふかふかの足が見えた。ニタだ。
「あれ、クク、部屋に戻ってなかったの?」
クグレックは顔を上げた。その表情にニタはぎょっとした。
「クク、どうしたの?なんかやつれてるよ。船酔い?」
クグレックは頭を横に振る。
「ううん、違うの。船酔いは大丈夫。」
「そう。ならどうしたの?」
「…魔法が、使えなくなった。」
「ふーん。」
ニタの反応は意外と薄いものだった。クグレックは少しだけ拍子抜けした気持ちになった。
「…私、これじゃぁ、何の役にも立たない…。」
「うーん、別にいいんじゃない?確かに火とか魔法で出ると便利だけど、戦いとかはニタとハッシュで何とかするし、大したことじゃないよ。」
ニタはぽんぽんとクグレックの肩を叩く。ニタの様子を見ていると、事態はクグレックが思っているよりも深刻ではないのだろうと思えて来た。
「むしろ、普通の女の子は魔法が使えないのが当たり前なんだから、いいんだよ。」
「普通の女の子…」
クグレックは復唱した。?普通の女の子”はクグレックが憧れていた存在だ。
(そうか、私は?普通の女の子”になれるんだ…)
クグレックはようやく気持ちが落ち着き、ずっと握りしめていた杖を背中のケースにしまった。
「そうそう、黒雲は『滅亡と再生の大陸』に帰って行ったから、海はもう安心だよ。」
「黒雲?帰る?」
ニタは船乗りから聞いた話を自慢げに披露した。