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夏日 純希
夏日 純希
novelistID. 55916
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すれ違いの糸

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 幼なじみの啓介は気づけば公園で一緒に遊んでいた。家は近所と言えば近所だが、隣とか斜(はす)向かいほど近いわけではない。大体お互い最寄りの公園を中点とした直線上に二人の家は位置していた。小学校の集団下校のグループもぎりぎり別になってしまうような近くて少し遠い関係だった。
 かすみの父親は強面(こわもて)だった。一般人からすれば近づきにくい雰囲気。なのに、公園に遊びに連れて行く係は基本的に父親だった。奥様方は当たり前に敬遠する。かすみを近くで見守る父親に、子供達さえ本能的な何かによって近づいてこなかった。
 けれど、啓介の家の人たちは違った。砂場で遊んでいると、いつの間にか隣にいた。ままごとだって一緒にやってくれた。啓介のお母さんも帰るときには毎回かすみにお礼と挨拶を言ってくれた。かすみにとってはそれだけでも十分特別な親子だった。後から聞いた話だと、啓介はかすみの砂場セットが気に入っていたから一緒に遊びたかったという幼稚な動機があっただけらしいけれど。
 もちろん最初は恋愛感情ではなかったと思う。ただ、成長するにつれて、啓介に対する感情も同じように成長した。バレンタインデイも毎年義理チョコだと言いながら、少しだけ特別なチョコを渡した。お互い誕生日は年齢掛ける百円のプレゼント、という約束はいまだに続いている。一つ一つは些細(ささい)なことだ。けれど、小さな特別がたくさん集まって、今の啓介への気持ちがあると思う。この気持ちは啓介に伝えていない。伝える資格がないと思っていた。それでも、誰とも付き合うことがない啓介を見ていると、宙を舞う風船のようにかすみの心は揺れる。
 年と比例して男女の距離は少しずつ離れていく。かすみと啓介の関係もその例外ではないように感じていた。お互いが嫌いになったわけではない。ただ、男女はいつかどこかで歩く道が分かれていくような気がする。いつまでお互い見える場所を歩いていられるのかはわからない。このまま少しずつ距離が離れていく。どうせ別れなければならないなら、それもいいのかもしれない。
 そう思っていたのに、一か月ほど前の雨の日、それはあっけなく覆えされた。
 かすみにはそれまでひたむきに隠し通していたことがあった。近くにいられなかったのは、知られたくなかったから。知られたくなかったのは、嫌われたくなかったから。嫌われたくなかったのは、誰よりも好きだったから。知られてはいけないことを啓介に知られてしまった。今まで築き上げてきたものがガラガラと崩れ落ちた気がした。
 だが、予想に反して、啓介は初めてかすみを抱きしめてくれた。絶対に受け入れられないと思っていた。絶対に嫌われると思っていた。なのに、啓介は自分の一番醜いところを、すんなりと受け入れてくれた。凍りついていた何かがあっさり溶けた。嵐の中、衣服の芯までずぶ濡れでも、心は確かに温かかった。
 私は啓介のそばにいてもいいのかもしれない。その日、かすみがそれに思い至ったのは、布団に潜り込んで目を瞑(つぶ)った後のことだった。
 
 あのメールが来るまでは、天は私に味方していると思った。
 本田かすみは私が犯人だったことに気づいていない。それどころか、警察に目撃情報さえ話していないようだった。報道管制がしかれている可能性も考えられなくもないが、犯人の目撃情報はいまだに全くなかった。本田かすみの出欠状態も変化なし。手芸部での私への接し方も、全くと言っていいほど変化はなかった。痴漢か何かと間違われたのだろうか。それはそれで不本意であり、ツキがあるようでもある。
 正直なところ本田かすみへの殺意は日に日に薄れていった。むしろ、最近では殺すには惜しいという気持ちの方が勝っている。それくらい彼女が時々家から持ってくる布地は非常に興味深いのだ。捨てられた布地をほどいて糸をいくつか採取してみたが、上品なその一本一本はひどく愛おしい。
 手織りの布地にはロマンが詰まっている。
 そのことに気づいたのはつい最近だ。今まではそんな布地と触れあう機会などなかった。相当高級だと思うのだが、本田かすみは何の躊躇いもなくそれを持って来る。良家のお嬢様なのかもしれない。実際、調べた住所にある家は、屋敷とか邸宅というように呼ぶのがぴったりなものだった。
 新たな犯行はどうやら必要ないと思い始めた、私はしばらくまた日常に酔いしれていた。『証明』という非日常は私の使命ではあるが、疲労しないわけではない。一度証明を行えば、ある程度の期間、日常に戻って心を回復させる必要があった。今までの経験では、その期間は大体二か月ほどだ。糸と優しく触れあい、語らい合う日常なしに私の人生は成り立たない。しかし、それは一通のメールによってかき乱された。
 手芸部専用のホームページにはメールアドレスが記載してある。皆が作った作品を世界中の人が見られるようにするという名目で去年の卒業生が作成していったものだ。そこのメールの確認は私の仕事だった。手芸部の活動の隙間時間で定期的にチェックしている。
 糸の通り魔はあなただったんですね。
 件名を目にしただけで私は凍りついた。そして、視界はぐるんぐるんといびつに回り始めた心地がした。
「先生」
 その声に、全身の筋肉が一斉に反応する。びくりとした私に、声をかけた生徒の方が逆に驚いてしまった。
「すいません。びっくりさせるつもりはなかったんです。先生、さようなら」
 帰っていく手芸部の生徒が挨拶をしてくれただけだった。パソコンの画面を見られたということは……角度的にもなさそうだ。とにかくここではメールを開くことさえ危険だ。かといって、自分のメールアドレスに転送するのも危険だ。何かあったときに最後に状況証拠となり得る。自分が犯人でないとすれば、どう行動するのか。このメールは削除する。それが正解だ。しかし、このメールを開かずして削除などできない。
 結局、全ての生徒が帰ってから、被服室の中でメールを開いた。
 メールアドレスは明らかにランダムな文字列が並んでいるようだった。ドメインからすると、数十分のみ有効なメールアドレスというものらしかった。恐らく今から返信しても、エラーが返ってくるだけだろう。
 自分の正体がばれるのは最悪だ。だが、メールの内容は最悪を超えいて、絶望よりも怒りしか湧いてこなかった。そのメールの主は、名指しで私のことを犯人だと言っていた。許せなかったのは、犯行方法が幼稚極まりないと書いてあったことだ。まだ一般人のざれ言なら鼻で笑って済ませてやることもできる。しかし、どうやらメールの主は、五月にあった事件の犯人、言わば模倣犯からのようだった。美しさに欠けるなどと平気で書いてある。読んでいて吐き気がした。そして最後は、
「糸の殺人は君のように幼稚な方法でなされるべきではない。どうかもう通り魔はやめてくれないか」
 というように締めくくられていた。
 糸に関する美的感覚は自負するものがある。それだけは絶対に譲れない。それを否定されることは、人生の全てを否定されるに等しかった。
 自宅に帰ってから、ふだんは飲まない酒を、水のように胃袋に流し込んだ。アルコールが体に回るまでの時間をこんなにまで疎ましく思ったことはない。
作品名:すれ違いの糸 作家名:夏日 純希