すれ違いの糸
かすみはどこかの国の皇帝が機嫌のいいときだけに見せるような満足そうな顔をした。続いて、流れるような動作で針に糸を通したかと思うと、変わった形の結ぶ目を作り、何度かシャツとボタンの間を行き来させて、くるくるとボタンのまわりに糸をまわして、あっという間に固定した。啓介は魔法のように取り付けられたボタンをしげしげと眺めた。すると、
「この糸はね、普通の糸より二倍くらい丈夫だから、ボタンの固定には最適だよ」
いきなり後ろから声をかけられた。手芸部顧問の金井(かない)先生だ。どこかしら無機質な特徴のある声だった。
啓介は金井先生の授業を受けたことはなかったので、少し身構えてしまった。背も高くないし、太っているわけでもない。特徴のない地味な先生だなというのが、啓介が抱いた第一印象だった。
体験入部させてもらっていることを告げるが、適当な相づちを打ってくれるだけだった。どうやら金井先生の興味はかすみがつけてくれたボタンにあるようだった。
「その糸の結び方は初めて見たな。どうやってるんだい?」
啓介のボタンは確かに見慣れない結び目でくくりつけてあった……なんてどんなマニアだ。啓介にはそんなのは一向に分からなかった。
「これは我が家秘伝の結び方なんですよ。蝶々(ちょうちょ)結びよりも蝶々らしいでしょ」
糸の結び方だけで会話がどんどんと広がっていく。二人は楽しそうだが、啓介には何が楽しいのか全くわからない。啓介は一人サイズの無人島に取り残された気分だった。
手芸部の基本方針は、とにかく糸にこだわること。かすみによると、この手芸部の部費のほとんどは糸代に使われているらしい。金井先生曰(いわ)く、糸は買わなければきちんとした物はない。けれど、布は家の中に不要な物があふれているだろう。それを使えばいい。言われてみればその通りで布は不要な衣服から取れる。けれど、糸は無理だ。布を解いて糸を得るのは並大抵の労力ではないし、布に使われている糸は刺繍糸とは違うので、縫い付けなどに使うことはできない。
「これも家から持って来たいらない布なんだけどね、埃(ほこり)をかぶっていたからちょうどよかったよ」
へぇそうなんだぁと軽く次の話題にいこうとするが、視線が思わずその布きれにくぎ付けになる。明らかに機械には出せない上品さみたいなものがその布にはあった。
「その布、高いやつじゃないか? そんな適当にはさみでぶつ切りにしていいものなの?」
上品に淡い黄色みがかった布地は、小学生の画用紙のように切り刻まれていた。
「これ? なんて言ったかな。真綿手織り八寸帯だっけ? いくら元値が高くても使わないなら価値はないからね。有効利用することにしたの」
多分これは、手のひらでそっとさすったときの手触りだけで人を幸せにできる布だ。いや、少し前まで、そういう高級な布だったものだ。こんなことになるために生まれてきた布ではないはずなのに。いい加減にしろ、この金持ちが。
その後、かすみは遅くまで一人残って制作を続けていた。啓介が一緒に帰るということで、気が大きくなっているのかもしれない。金井先生はというと、教壇で提出された課題の添削をしているようだった。最終下校時刻のアナウンスが七時に流れて、やっとかすみは帰る決心をしてくれた。帰る際、布の余りは無残にもゴミ箱に捨てられた。
次の日の朝、啓介は被服室に筆箱を忘れたので取りに行った。ゴミ箱の方から哀愁が漂っていたので、のぞいてみると真綿手織りの切れ端は昨日よりほつれて見えた。
週末の昼過ぎ頃に、かすみが襲われた現場に啓介はかすみと二人で訪れた。
結局かすみは通報しなかったけれど、かすみが襲われた日、この場所で事件は起きていた。やはり、かすみが目撃したのは糸の通り魔の犯行だったらしい。
テレビの報道では、事件にはかなり特殊な糸のような物が使われているということだった。ワイヤー並みの強度を持った繊維系の何か。それはもうワイヤーだとみなしていいのではないかと啓介は思った。テレビはそれがワイヤーでないことが視聴者の関心を集めるとでも思っているのだろう。だが、首を絞められる者からすれば、ワイヤーであろうが繊維であろうが全く関係はない。
「その意見には私反対だな。手練(てだ)れのナイフ使いの犯行を、包丁で刺殺って報道するような侮辱だよ。最低でも鋭利な刃物、ちょっとミステリアスにするなら、ナイフのようなもの。それが報道の流儀ってもんでしょ」
啓介には理解不能だったが、無視したりぞんざいな返答をしたりすると後が厄介そうだから、
「そうだな。糸は後で燃やして処分できるけど、ワイヤーは無理だもんな」
とかみ合ったような、かみ合ってないような返答をしておいた。かすみもなぜかそれで満足そうに数回頷(うなず)いた。
啓介は辺りに人がいないことを確認してから、犯人がいたという壁の上によじ登ってみた。かなり高い平均台の上に立っているような気分だった。壁の内側の家が空き家なことは事前に確認済みだった。のぞいてみると、割れたガラスが段ボールとガムテープで塞がれている。
かすみの目撃したことの再現を試してみることにした。まずは投げる動作。壁の上では足を前に踏み出せないため、あまり高度な投てきはできない。
「次は、手繰り寄せるように引っ張ったんだっけ?」
壁の下で待機しているかすみに問いかけた。かすみは頷く。
引っ張ってみる。が、危うくバランスを崩して落ちそうになった。引っ張る対象がいないのに、こんな不安定な場所で引っ張るのはやや無理があるだろう。常識的に考えれば、このときに引っ張っていたのは、被害者の首に巻き付いていた糸であろう。そして、そのまま飛び降りて担ぐような姿勢で引っ張る。このときには、被害者は宙づりになっていた。そして、時間がたてば、絞殺死体のできあがりということだろうか。
周囲を見渡してみるが、道に小石が落ちているぐらいでめぼしい物は何もない。啓介は少しの間、口に手を当ててふーんと考え込んだ。
「よし、ここにいても暑いだけだし、商店街の喫茶店でもいこうか」
探偵にはあるまじき速度での、事件現場からの撤退だった。しかし、これにはかすみも賛成した。
「あそこのパフェは、イチゴと生クリームの奏でるハーモニーが最高なんだよ」
待ちきれない早く食べたい早く行こう、という気持ちがかすみの表情からあふれ出た。啓介はかすみの単純さにあきれながら、商店街へと向かった。
「さて、犯人はどうやって首に糸を巻き付けたんだろうね」
かすみは世間話のように尋ねてきた。
「やっぱり、ぶわっと糸を投げて、くいっと引っかけたのかな」