すれ違いの糸
でもそのためには、啓介に勉強を追いつかなきゃいけない。高一になったところなのに、って思うかもしれないけど、ずっと勉強なんて必要ないと思ってたから、事態は啓介が思っている以上に深刻だったのです。だから、親と文字通りの格闘をして、やっと塾に通わせてもらったんだよ。でも、それがこの事件に巻き込まれるきっかけになっちゃったなんて皮肉だよね。
あと、一つ決めたことがあったんだ。もう人は絶対に殺(あや)めない。それで家業がどうなるのかはわからないけれど。啓介は今までのことを受け止めてくれたとしても、これからのことまで受け止めてくれるとは限らないから。この一大決心も、普通の人にとっては当たり前過ぎるから、わざわざ口に出しては言えなかったけど。
啓介が私のために一緒に犯人捜ししてくれるって言ってくれて嬉しかった。でも、ほんとは啓介に犯人捜しをして欲しかったわけじゃなかった。最初から、犯人も殺害方法もどうでもよかった。ただ、啓介が万一殺されるなんてことになったら嫌だったから。一緒にいられれば少なくとも守ってあげられると思ったからだったんだ。あと、一緒にいられる時間が増えて嬉しいっていうのはただのおまけでさ。啓介が難しそうなこといろいろ考えている姿を見ているのもなんだか楽しかったよ。このまま一緒にいられるなら、犯人なんか捕まらなければいいとか考えてた。私ってほんと駄目だよね。だから罰が当たるんだ。
今日は啓介が急用で先に帰ったって聞かされた。携帯も出てくれないし、しょんぼりして家に帰ったよ。そしたら、啓介からの緊急通知が来た。もしものことがあったらどうしようかと思って気が気じゃなかった。
だけど……。
間に合ったのに、失敗しちゃったね。本当にごめん。啓介の前だから絶対に殺したくなかったんだ。でも、やっぱり力の加減がわからなくて。まさか気絶した振りをするなんて思わなくて。啓介が無事なのがわかったら、緊張の糸がぷっつり切れて。それで、頭真っ白になっちゃって。
啓介のこと助けられなかった。殺人鬼が正義の味方になれるわけなかったんだ。殺人鬼のままでも、せめて啓介を助けたらよかった。馬鹿だ。私って本当に馬鹿だ。この後、啓介が殺されちゃうかと思うと胸が苦しい。苦しくて苦しくてもう本当に駄目だ。誰か、せめて啓介だけでも……。
あがく姿もむなしくかすみは落ちた。地面に落ちて、壊れた人形のようで気持ち悪かった。元気なかすみにはこんなのは似合わない。やめてくれ。なんだこれ。こんなのは望んでない。僕はただ……ただ……。誰か助けてくれ。
啓介は涙と嗚咽(おえつ)に溺れた。
金井先生の息が荒い。啓介は必死で逃げようとするが、芋虫のようにしか動けない。すぐに首に糸が巻かれた。金井先生の脳内のリミッターなど、どこかへ飛んで行ってしまったのだろう。もう何の躊躇いもないようだった。
苦しい。首を掻きむしりたい。しかし、縛られた両手は、暴れると糸が食い込んで自身を傷つけるだけだった。何もできない。肺は許容範囲を超えて、空気を欲していた。
もう駄目だ。
意識を失う寸前、扉が大きな音を立てて吹き飛んだ。ドドドと近づいてきた大きな塊は、ダンプカーが人をはねるかのような勢いで、金井先生を反対側の壁にぐしゃりと打ち付けた。糸を巻き付けてあったであろう木製の持ち手がコロコロと転がる。
息が吸える。人間らしい論理的な思考はすべてどこかに飛んでいって、本能の赴くままむせ返りながら啓介は息を吸い込んだ。
「かすみを助けて」
啓介はそれだけを何とか発する。すると、今度はみぞおち周辺に巨大なハンマーで殴られたような衝撃が走る。ぼきりという音が自分の内部から耳まで響いた。また息が吸えない。勢いで宙を舞った後、背後にあった三角コーナーに突っ込んで埋もれた。蹴られたということは、悶絶(もんぜつ)を二、三度うってからやっとわかった。あばらが折れた気持ち悪い感覚が、また啓介を混乱に追いやる。
「死ね、この害虫が」
害虫未満のものに放つようなひどい口調だった。殺されるのか。そう思いきや、それはかすみを抱えてすぐに走り去った。
その後ろ姿は、かすみの父親だった。これで少し希望が繋がった。お願いだから助かって欲しい。かすみが最後に向けたまなざし。悲哀の滴(しずく)。啓介のまぶたの裏に焼き付いて、どんどん熱さを増していった。
あの父親は、かすみの殺人仕草とは全然違う。激しいし、容赦がない。胸に受けた衝撃は際限なく痛覚を責めたて続ける。そして、冷徹な兵器としか思えない人物の必死に走り去る姿が胸を締め付けた。
先生の死体と放置された一晩の間、嗚咽のたびに、啓介はあちこちがひどく痛んだ。
二か月ほど経過すれば啓介の体はほぼ元通りに回復した。けれど、横を歩くかすみの記憶は失われたままだった。意識が戻ったとき、かすみはたくさんのことを思い出せず、啓介のこともその例外ではなかった。思い出せない存在ならば、近くにいることで、混乱させてしまうのではないかと啓介は思った。しかし、近くにいてくれた方が安心するから、側にいて欲しいと言われた。
記憶が消えて、感情だけは残ったという感じなのだろうか。
これはかすみの父親から聞いた話だが、仕事の記憶も、かすみからすっかり抜け落ちているらしい。いくら説明しても、冗談だろうと返され、信じてもらえなかったらしい。
最愛の娘がそんな状態なので、あの父親の雰囲気もより暗いものになっていた。
今、かすみは純白だ。いいことも悪いことも全部消えた。前より屈託なく笑うように見える。前よりも自分の感情に正直に生きているように見える。もちろん、つらいこともたくさんあるのだろうけれど。
記憶なんていつか戻る。本人はえらく気楽に構えているようだった。かすみらしいと言えば、かすみらしかった。
「でさ、昨日の現代社会のテストなんてほんとに絶望した。全然、見たことない問題ばっか。記憶喪失にはあのテストしんどいよ」
「心配するな。お前記憶あるときも同じようなこと言って、赤点とってたよ」
「うわー私のばかー。墓穴掘ったー」
かすみは頭を抱えつつも、脳天気に笑い飛ばす。啓介もつられて笑ってしまう。
記憶が信じられないから、感情を信じることに決めている。かすみの言葉だった。そして、啓介は絶対に大丈夫だと感じてくれているらしかった。最初は父親よりも啓介を信じる素振りが多かったせいで、父親には足を何度も踏みつけられた。
こうやって登下校をするのも、もう慣れたものだった。
日々は着実に過ぎていく。
ふと、かすみは歩みを止めた。
「ねぇ、気になってたことがあるんだ。どうして啓介君はこんなにも私に優しくしてくれるの?」
啓介はかすみが退院してからは、授業中以外は、ほぼかすみのそばにいた。かすみが家に帰っても、電話で話し相手になった。それは、罪滅ぼし。または、喪失感からだった。
「もしかして、事件の前は私たちこっそり付き合ってたり……」
「付き合ってはないよ。前も言ったろ? 僕らはただの幼なじみだ」
かすみの言葉に啓介の心はねじられる。啓介はかすみとは反対の方に顔を向けた。
「そか。そうなんだ」