D.o.A. ep.58~
わけの分からない言葉を重ねる男に、ライルは瞳を震わせる。
戻ってこない、とはどういうことだ。ここに囚われているなら会えるはずではないのか。
「意味が、分からない…」
言葉の意味を理解した途端、膝から崩れ落ちて、もう立ち上がれない予感がする。
その細くかすれた呟きは消え入りそうで、本当はわかっているのに、理解を拒んでいるだけだとグラーティスは気付いた。けれども言い募る。
「魔香は自我を壊す一級危険物指定の魔術薬だ。早い奴は一日、多少耐えられる奴でも五日ありゃ“戻ってこれない”」
「ま、こう…?」
「あの成金がどういう目的でこんなマネしてるのかは知らんが、ボウズ、もうおめぇさんの知る人は…」
「…まっ…て、もう、それ、じゃあ…リノンは」
辺りに漂う魔香のせいなのか、そうでないのか定かでないが、腰から項にかけて言いようもない冷たさが這い登り、抗いようのない脱力感に襲われる。目の前がぐらぐらして、眼球が痙攣する。
「―――ライルさん、しっかりしなさい!」
けれど直後、高い怒声と共に、彼の肩は強く揺さぶられた。
知る限り声を荒げたことなど一度もない女である。面食らって呆然としていると、頬をひんやりと柔らかな手のひらがとらえた。
合わさる酷く鮮やかな金色と赤の双眸が、まっすぐに突き刺さる。
「ちゃんと目を開いて。冷静になって確かめて。あなたの探す人が本当に、この中にいるのかどうか」
「…けど」
「大切なひとでしょう。よく探しもせずに、諦めてしまっても構わないの?」
「………、そうだな、わかった…」
檻の中へ向き直って、求めてやまない姿を、目を皿にして見定める。
そう。自分がリノンを、誰ともわからぬ者と見間違えるはずがない。
頭を冷やしてしっかり探せば、どんな大勢の中からであっても見つけられる。
白痴のような人々は、誰もが知らない顔であり、誰ひとりとして彼女とは似ても似つかぬ顔ばかり。
まばたきすら惜しんで檻の内を凝視したが、結局彼女の姿はどこにもなかった。
「この中にはいない」
「本当か?奴らが連れてったなら、ここにいるはずじゃあねえのか?願望が、目を眩ませてる可能性は?」
「そんなことない。絶対に、ここにはいない」
「…そこまで自信があるなら、これ以上言わんが…だとしたら、一体どこに…」
ただでさえ、魔香が逃げ場なく充満する部屋だ。
ナファディ卿もリノンもいないとなれば、これ以上とどまる意味はない。
室内には他にいくつか扉があったが、何処に通じているかわからないので、来た階段への道を戻るのが確実だろう。
不意に頭の奥に残る、痺れるような感覚が、小さな頭痛と混じって、ライルは眉を顰めてこめかみを押さえる。
興奮してかなりの量の魔香を吸い込んでいたのかもしれない。のちのちおかしな障害が出てこなければいいが。
早く立ち去ろう、とレリシャに声をかけようとすると、彼女は檻の中の人々を見つめていた。
魂の抜けた光の無い眼、時折の僅かな挙動、喃語のようなくぐもったうめき、すべてを心に刻みつけるように。
「…彼らはこの先、かけがえのない人の抜け殻を抱えて生きていくのね」
彼女がこぼした呟きに、ライルはハッとする。
幼馴染みのことで頭がいっぱいになっていたが、そもそも発端は酒場の事件だった。
彼らは同胞を解放しろ、と声高に要求していた。同胞とは、今ここで囚われている人々を指しているに違いない。
無事を信じたからこその暴挙であって、このような無残な姿に貶められているとは夢にも思っていないだろう。
グラーティスの言う通りなら、再会したとしても、もはやまともに言葉を交わす事さえできないのである。
「レリシャちゃん…ここでこいつらにしてやれるこたぁなんもねえよ」
「俺たちは、俺たちにできることをしよう。ナファディ卿を―――」
作品名:D.o.A. ep.58~ 作家名:har