D.o.A. ep.58~
まだ、動悸がおさまらない。
ナファディは、額に浮かんでいた冷や汗を乱暴に拭い、歯噛みする。
つい先程の、名も知らぬ、どうやら知人同士らしい三人の応酬の結末は、彼の理解の範疇をこえるものだった。
空間が切り裂かれる鳥肌の立つような現象と、耳に残る高音。
三人は信じがたい事に、その切れ目へと体を滑り込ませ、どこへともなくこの場から消失したのだ。
完全に蚊帳の外に置かれていた彼は、その異様な出来事を、唖然と呆けて見ているだけだった。
そして今、彼らがこの場にいたという痕跡は、彼の手が握りしめる、ずっしりと重い袋だけだった。
―――図に乗るなよ。自分が交渉なんてできる立場だと思うのかい?
あんな、何処の馬の骨とも知れぬ貧弱な若造に、ナファディは完璧に気圧されていた。
元老院有力議員、ナファディ=ラジアンが。
この街を表からも裏からも支配する絶対権力者が、怯えたような掠れ声で、ただあの青年の要求に頷くよう屈服させられた。
あれが何処から来た何者か、ナファディは全く知らない。
そのような付き合いは彼にとって珍しくないが、どんな交渉であれ必ずこちらが圧倒的に優位であり、唯々諾々と相手に頷くだけの会合は、ただの一つとして無かった。
彼が膝を折り、打算なく一方的に服従するのは、この世で限られた貴い人々だけだ。
強欲で酷薄で高圧的な支配者に残された、笑ってしまうような純粋さは、その人々のためにすべて捧げられている。
巨万の富も、美食も、どんな美しい女も与え得ぬ至上の幸福を、その人々への忠誠だけが満たすのだ。
聖域を土足で踏み躙られたような、如何ともしがたい不快感があった。
無性に何かに当たり散らしたい苛立ちに支配されそうになるが、この街に滞在している王女の存在が、それに歯止めをかける。
近い将来には穢れ無き理想の君主として、なんの憂いもなく安定した国家の頂点に君臨してほしい。
その実現を阻むものは、徹底的に踏み砕いて排除してみせよう。
どんなおぞましい手段を用いようと、ナファディはいかほどの痛痒も感じない。―――あの方が穢れない為ならば、どんな泥でさえ被れるとも。
帰途につくべく、寂びれた暗い道をゆくナファディは、不意にあの青年の出会いがしらの言葉が気にかかった。
表が騒がしいようだから対応に追われているのではないか、などと彼にはまるで心当たりのない内容だったが、一度気になってしまえば頭からこびりついて離れない。
停めさせておいた馬車へ乗りこみ、このまままっすぐ帰るのかと尋ねる御者に、表通りで止めてくれと言いつけて腰を下ろす。
薄汚れた幌の内でごとごと揺れられつつ、彼の胸は妙に騒いでいた。
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作品名:D.o.A. ep.58~ 作家名:har