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D.o.A. ep.58~

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――――逃げられない。

リノンは、馬車から降りた直後に逃げ出しておかなかった事を心底悔いた。
絶好の機会とは、後になってからそうだったとわかるのが凡人であり、彼女は自らの凡人具合を真っ白になりそうな頭で痛感する。
遠目からは女のように細くたおやかだが、決して逃げられるような甘い男ではない。
虫も殺さないような顔が、この世の誰よりも冷徹にゆがむのを、知っていた。

「表が騒がしいようだったからね。対応に追われて今夜は現れないだろうかと思っていたんだ」
「…?なんのことだ。なにを言っているのだ」
「まあ、そんなことはいい。さて、そちらのカノジョで間違いないね」
「魔香を10日以上吸い、なお正気を保つ化け物だ。まったく気味の悪いことこの上ない」

勝手に連れ去ってきたくせに、随分な言い草であった。
しかし、ナファディの話から察するに、やはりあの薄い霧が正気を奪った原因らしい。
なぜ自分だけが無事でいられたのか気にならないこともないが、少なくとも幸運とはいいがたい。
故郷であるラゾー村の大量虐殺。
その犯人がこの男―――レンネルバルト。
教会で、村人たちの首を完璧に躊躇いなく切り落とし、ライルの胸に癒えぬ傷を刻みつけた男が、眼前に佇んでいる。
許せないと思う。憤りを覚える。
しかし、それより大きいのは恐怖心だった。
気まぐれでいつその手が殺意を帯びるのか、考えるだけで冷や汗が流れてくる。
そして今、ナファディはレンネルバルトに、リノンの身柄を委ねようとしているのである。

「…では、働きの対価を支払おう。100万で充分かな」
「いや、待て。あの香に耐えたのは、魔力が非常に優れていることの証。よくよく考えればお前に売り渡さずとも他に買い手がいるではないか」
「………」
「100万?ふん、これほど優れた材料、ウィクセン研究室なら更に高値が…」

金色の吊り上がった瞳の中で、ランプの光が一瞬揺らめいた。
次の瞬間、ナファディの咽喉仏すれすれに、鋭く長い何かが突きつけられる。

「図に乗るなよ。自分が交渉なんてできる立場だと思うのかい?こっちとしては穏便な展開が最良だけど、あんまり愚図るなら…」

―――ここで胴体とサヨナラしてもらったっていっこうに構わないんだ。
奇剣ヨルムンガンドが、圧倒的な死の気配を放つ。
ようやく己の浅はかさに気付いたナファディは目に見えて顔色を悪くし、100万で不足はない、とか細く咽喉を震わせた。
それに応えるように革袋が放り投げられ、危なげに受け取る。中身はずっしりと重い。たっぷりの金貨だ。

「大事な大事な一点物は、棄てるならここぞという時にしないと」
何事もなかったように殺気を消してにこにこ手の平を向けてくる彼に、ナファディは苦い表情でリノンの枷の鎖を手渡した。
金を払って即座に斬り捨てるような真似はさすがにしないだろうが、死ぬより酷い目に遭わされる可能性は十二分にある。
無論、金を払ってナファディの魔の手から救い出してくれた、などという甘い期待は小指の爪の先ほどもなかった。
取り引きはつつがなく終了し、あとは各々撤収するのみとなる。
「ところで…先ほどのアレは?」
「表の騒ぎの話かい?さあね。僕もよくわからないから、自分で行って確かめなよ」
埃に軽く咳払いして、レンネルバルトは廃墟から退出しようとしたが、扉の立て付けが悪いのか、うまく開いてくれない。
これが最後のチャンスだ。失敗した後のことなど知るものか。―――リノンは顔を上げる。
「!」
扉が開いた刹那、リノンは渾身の力を以てその痩身に体当たりした。
今の今までおとなしく従っていた彼女の、予期せぬ強攻にさしものレンネルバルトもわずかに怯み、鎖を握る手が緩む。
その間隙をついて外へ躍り出る。
寂びれた暗い通りは変わらず無人に近く、誰一人として助けを求められる者はいない。しかし求めるつもりもない。
そのまま闇に紛れるべく駆け出し―――

「おいたはいけないなあ、お嬢さん」

どうしてか、目と鼻の先に、男の歪んだ笑顔があって。
ぱん、と乾いた音、衝撃が、彼女の頬を打ち据える。
身体がかたい道端に投げ出され、頬が熱と強い痛みをじわじわと訴えている。
「君には大事な用がある。逃げようなんて許さないよ」
―――彼女の逃亡劇は、あっという間に終わった。
「……う…」
この程度の痛みなら、起き上がれないはずがないのに。
心臓が縮み、頬以外から熱が急速に失われ、脚が萎えていく。
あの黄金の双眸に真近くで見据えられた瞬間、彼女は完全に屈してしまったのだ。
「…っ、あ…」
彼が鎖をとって引っ張ると、力なく弛緩したような身体がそれに従って持ち上がる。
振り絞ったなけなしの勇気は、いとも簡単に、赤子の手を捻るように踏み躙られ。
(もう…)

絶望に打ちのめされ、視界がぼやける。


「―――やっと……、見つけた……!」

そして、その滲んだ世界に、この場にいた誰でもない姿が降り立つのを、確かに見た。



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作品名:D.o.A. ep.58~ 作家名:har