D.o.A. ep.58~
「も、もうしわけ…!」
踊り手に夢中になってしまった給仕の男が、うっかり運んでいたジョッキをひっくり返したらしかった。
しかも、客の服の裾を僅かながら汚したようで、可哀想になるくらいに平身低頭、平謝りしている。
「ふざけるな!謝ってすむものか。この服、おまえの給料一年分あっても足りんのだぞ!」
無粋に余興を妨害された腹癒せもあってか、客は必要以上にがなり立てて給仕を萎縮させる。
とりまきが数人いる、いかにもな金持ちだったが、ごてごてとつけた貴金属のセンスが下品な、いかにもな成金だった。
大柄で、油で撫でつけた頭髪はさほど多くなく、口角泡を飛ばして延々と給仕を罵っている。
「ま、まずい。あの方は」
店主は、客の姿を認める否や、カウンターからとびだしていく。
「ん?おまえ…顔を上げろ。 …その顔だち…我が国のものではないな。移民か?」
「は、はい…」
問いに対して正直に肯定すると、客は椅子を蹴るようにして立ち上がり、給仕の男を頭髪ごと持ち上げた。
給仕は痛みより恐怖にひきつって震えているが、とりまきは誰も止めようとせず、むしろにやにやとしていた。
「ならばなおのこと許せんな。貴様のような輩がアルルーナを駄目にする。
―――そうさな、ここで半死半生になるか、即刻故郷へ帰るか、好きな方を選ばせてやろう」
「ナファディ卿! …ぼ、暴力はおやめください!」
やっと店主がその場へたどりつき、客をなだめようと試みる。
無論効果はなく、ナファディと呼ばれた男は底意地の悪い表情で店主を見下ろすばかりだった。
「おまえが店主か?さすがに私を知っているらしいな。ならば私がこの世で最もキライなものも知ってるだろう」
「まことに、も、もうしわけございません。こちらの配慮が足りませんで…」
「移民など給仕に使いおってからに……気分が悪い。この始末、どうつけてくれようか」
整えた口髭に触れながら、ナファディ卿は店内をぐるりと一望して思案する。
この様子では、店主は何を要求されようとも従うより他はないだろう。
「めんどくせー場面に立ち会っちまったねぇ」
「なにあいつ」
「オレが知るわけねーでしょ。ま、呼び方からして、お貴族様じゃね?」
小声でやりとりしていると、なにか思いついたらしいナファディ卿が、ずかずかステージに上がっていった。
芸を中断させられ、困ったように佇む踊り子の細腕を引く。
それを目にした時、酒もあいまって、ライルの理性は簡単に弾けとんでいた。
ただし義憤ではなく―――その人にさわるな、という、私情そのものだったが。
その行動の早さは、グラーティスが止める暇さえなく。
「とりあえずは…迷惑料の一環として、この女を一晩借りるとしようか」
「迷惑なのはあんただ、その手はなせ」
「…なんだ、おまえは」
腰を抱こうとする手首を止められ、邪魔者の姿形を視認すると、年端もいかない少年だった。
子供がしゃしゃり出てくるような話じゃない、そう一笑に付す。
途端、その手首に意外なほどの力が加わったので、振り解こうとするが、ますます締めつけられていく。
痛みに顔をゆがめると、今まで野次をとばすだけだったとりまきが色めき立った。
「おいガキ!この方がどなたかわかってんだろうな!あのナファディ卿だぞ!」
「知らない。色ボケした悪趣味な成金にしか見えない」
「ぶ……無礼者!お前らやっちまいな!」
結局はお定まりのような科白で、暴力沙汰へと雪崩れこむのだった。
(あちゃー…アイツ目が据わっちまってらぁ)
常の少年ならば、あそこまで他人を露骨に挑発などしまい。
彼がいかほど飲んでいたか、グラーティスは憶えていないが、初心者には過剰すぎる量だったことだけは確かだ。
見たところちっとも赤くないし、千鳥足でもないが、心の抑制が完全に取っ払われている。――あれは完璧に酔っている。
そうこうグラーティスが分析している間にも、諍いは周囲にも波及しはじめていた。
もともと酒の前では人間の理性など塵芥に等しい。
見物していただけの連中も、誰かが吹っ飛ばされテーブルに突っ込んできたら、参戦せざるを得ない。
やがてただの喧嘩は、酒場全体を巻き込む乱闘へ発展し、誰が誰を殴っているのやらわからない状態になった。
持ち前の身のこなしで人を巧みによけながら、グラーティスは踊り子に近付き、告げた。
「悪ィけど…警邏兵に通報してくれる?」
「は、はい」
ハッとした彼女はうなずき、提言にしたがって出入り口へと駆けていく。
それを見届けると、今度は乱闘の中にいるライルをひっぱり出し、騒ぎに乗じて酒場から逃げ遂せたのだった。
作品名:D.o.A. ep.58~ 作家名:har