影
家に着くと僕はまっさきに二階の自分の部屋に向かった。そしていつものように押入れに隠れるのだ。襖を少しだけ開けて、僕は押入れに入れられた自分の布団の上に身を倒し目を閉じる。そして翔也くんのことを考える。影のことを考える。真っ赤に染まった世界に心を馳せる。そうすればいつもすぐに意識が遠のき始める。暗い押入れの中で僕は浅いとも深いとも言えない眠りにつく。決まって、短い時間夢を見る。幼稚園が舞台になっていることが多かった。僕はその夢の中でいつも独りだった。独りなのに、周りからは幼稚園の園児達のざわめき声が聞こえてくる。とても遠くから聞こえてくるような、耳元で囁かれているような、どちらとも言えない声だった。声は楽しそうにはしゃいだり、あるいは走り回ったりしているようだった。しかしやがては小さくなって消えていく。そこには僕だけが残される。やがては僕自身もどこかへ行ってしまう。誰もいなくり、声も聞こえないその幼稚園に、翔也くんが独りでやってくる。翔也くんはあたりをきょろきょろと見回している。園児達を探しているのか、母親を探しているのか、あるいは僕を探しているのか。誰もいない幼稚園に独りで立ちすくむ翔也くんを僕はいつも哀れんだ。何故僕はいつも翔也くんが来るまで待っていないのだろう。そのことを僕は毎度悔やんだ。
翔也くんは何か諦めたように去っていく。表情は後ろ姿で見えないのだが、どこかとても寂しそうな足取りで。翔也くんが去っていくとこの夢は終わる。僕はこの夢を今でも時々見る。僕も翔也くんも子供のままの姿で。僕は大人になったが、翔也くんは大人にはなれなかった。
少しだけ開けられた襖から、僕の影だけが押入れからするすると抜け出していく。影はそのまま窓のほうに向かい、そこからついには外に出ていく。これは僕の影だが、僕は僕の影を俯瞰で見ている。監視カメラから見ているように、僕は僕の影が窓から外に出ていくのを見送る。
影が外に出るとカメラも外に設置される。影がカメラの視界の外に出ていく度、カメラもその都度切り替わっていく。影は建物や電灯の影に沿うようにしてどんどん家から離れていく。その動きにはなんの淀みもない。それが僕の影に下された決定的な運命であるかのように、影は一心不乱に進んでいく。やがて影は、僕がその年入学する予定の小学校の校庭にたどり着く。
校庭には誰もいない。ただ校舎や遊具の影だけが平たい校庭に伸びている。僕の影は鉄棒の影に腰を降ろすようにして止まった。待ち人が来るまで、足をぶらぶらさせて時間を潰す。やがて、校庭にもうひとつの影がやってくる。翔也くんの影だった。ふたつの影はいつも決まって片手を軽く上げ挨拶をする。表情は無いはずなのに、ふたつの影は微笑んでいるように見える。影は影なので、声を発することはできない。しかし僕と翔也くんの間には言葉などなくても簡単に意思疎通ができた。次にどんな遊びをするか、まるでテレパシーのようにすぐに伝わった。むしろ実際に病室で会うよりも多くのことを分かち合い、共有していた。そのことを僕は不思議とも思わなかった。それは至極当然のことのように思えた。空気を吸うように、二人には考えるまでもないことだったのだ。
その校庭で、僕たちはよく追いかけっこをした。僕は足が遅かったし、翔也くんに至ってはまともに歩けるはずもないのだが、この影の状態では二人はこの世の何よりも速かった。一瞬で校庭の端から端まで行くことができた。その速さが二人にはとてもスリリングで心地よかった。
夕方の誰もいない校庭で、思う存分二人は走り回った。世界は僕たちだけのものだった。そこに他の何かが介入する余地はまるで無かったのだ。二人の間には音も無く、邪魔するいじわるな子も居ない、口うるさい親も先生も居ない。そこには誰もいない。僕という存在や翔也くんもいない。そこにいるのはふたつの影。ふたつの観念。ふたつの魂だった。僕たちはそこで子供でもなかったし、ましてや人間ですらなかった。あの感覚はなんと言うべきだろう。この世のあらゆる理を越えて、二人の心という純粋な塊だけが肉体を飛び出し、ただ自由な世界に喜びを見出す為だけにそこにあった。何故そんなことができたのか、何故そんなことが許されたのか。今でも勿論それは解らない。ただ思うことは、翔也くんの短い命の為に、もし神様のようなものが存在するならばそれが翔也くんに与えた一つの憐れみなのかもしれない。あるいは翔也くんがたったひとつもった力のようなものなのかもしれない。彼の力で僕は彼の元に呼び寄せられていたのかもしれない。何にせよ、当時の僕はこの出来事を深く考えることもなく、誰かに尋ねることもなかった。これは二人の間の秘密であり、二人にとっては当たり前のことなのだと思っていた。まだ僕には常識も固定観念もなく、考えることは全て実行可能であり、自分が体験していることの全ては自分にとって現実だった。
二人は陽が完全に落ちて消える寸前まで走り回った。真っ暗闇になって影が見え無くなると遊びは続けられなかった。視点は俯瞰なので、自分の影がどこにいるのか自分でも解らなくなるからだ。その日も終わりの時間が訪れた。翔也くんはいつも帰るのを渋った。また明日、となだめるのが僕の役目だった。最後にもう一回だけ、と翔也くんは駄々をこねた。
その日、翔也くんは病院の方へ帰らずに校舎の方に向かって行った。僕はそれはいけないと直感的に感じた。僕は彼を呼び戻そうと彼の後を追った。影は校舎の裏に入って行った。そこは雑草が生い茂り、普段誰も入ってこない場所なのだろうと推測できた。学校内はほとんど走り周って見てきたが、ここに来るのは初めてだった。僕は手招きして翔也くんに帰ろうと促した。また翔也くんもこっちへ来いと僕に手招きした。翔也くんは校舎裏にある一つの扉を指差した。どうやらここから中に入ってみようということだった。僕の影はそれに首を振った。翔也くんはそれでもなかなか諦めなかった。やがて、僕の同意を得ないままその扉を開けた。いや、影が実体である扉を開けられるだろうか?扉は扉のほうから開いたのだ。今考えるとそう思える。
僕の俯瞰カメラはすぐさまその扉の向こうを捉えた。そこには、扉をあけてすぐ階段が伸びていた。どこまでも続く階段だった。どこまでもどこまでも、果てしなく登っていく階段だった。学校の校舎は三階建なのに、その階段はそれを無視して延々と伸びていた。先の方に目を凝らしてもどこにつながっているのか分からないくらいだった。狭い通路で、階段以外何もない。途中の階に出る扉もない。ただただ階段だけが続いているのだ。翔也くんはその階段の先を指差している。僕はただ首を振る。なにか言いようのない恐怖が僕の中に広がっていた。ここには入ってはいけない気がした。この世のどこよりも、ここだけには絶対に入ってはいけないと僕の直感は告げていた。僕が立ちすくんでいると、やがて翔也くんは一人で中に入り、階段を登り始めた。