影
ああ、もしこの時声がだせたならと思う。僕は全力で彼を止めていたはずだ。しかし影である僕は声をだせず、そこに突っ立って彼の影が登っていくのを見ていることしかできなかった。影は淀みなくどんどん登っていく。翔也くんの影はこの時どう思っていたのだろう。一人でも登ってやるという好奇心に突き動かされていたのか、僕が後から付いてきていると思っていたのか。
やがて、翔也くんの影は見え無くなるまで登って行った。僕は恐怖と焦燥感で一杯になり、その場を逃げ出した。全速力で走って家に向かった。誰かにこのことを知らせなくてはならいという思いで一杯だった。しかしそう思いながらも、一体どう大人達に話せば解ってもらえるだろうかという疑問も拭えなかった。家路を急いでいる途中で、ふいにカメラが消えて、真っ暗になる。それはいつものことだった。
次の瞬間には僕の意識は僕の中に戻っていて、僕は僕の部屋の押入れの中に身を横たえていた。そっと押入れの襖を開けて外に出ると、陽はすっかり落ちて部屋は真っ暗だった。僕は何故か音をたてないようにそっと歩き、静かに階段を降りて一階に向かった。どうしようもなく、母に会いたいという気持ちが強かった。さっきの出来事を母親に伝えること以前に、ただただ母の顔が見たかった。居間にいた母はソファに腰を降し、目には涙を浮かべていた。翔也くんが死んでしまったことをそこで伝えられた。
大人になってから僕は時々考える。あの階段を翔也くんと一緒に登っていたら、やはり僕もこの世から消えてしまっていたのだろうか。そのことを考えると自然と身体が震えた。ただあの先に何があったのだろうという好奇心もまた僕の中に恐怖と一緒に同居している。もし、またあの扉が僕の前にあらわれたら。もしかすると階段の先で翔也くんがまっているかもしれない。もう一度彼と共にあの誰もいない校庭を走り回って遊べるかもしれない。その可能性は一種の麻薬のように危険な魅力を僕の中で帯びている。
ただその想いを断ち切らせてくれるのは、こうして腕に抱いた息子の顔であり、傍にいる妻であった。僕はまだ生きて、彼らの為にしなければならないことが沢山ある。
「さあ、帰ってお父さんにお風呂に入れてもらいなさい。いっぱい汗かいたから。」
妻はそう言って息子の手を引き歩き出す。息子のもう片方の手を僕がとり、三人は並んで帰路に向かう。紅い空の下、あの日の不思議な思い出に想いを寄せながら。