小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
ぱかぽんと
ぱかぽんと
novelistID. 55710
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

INDEX|1ページ/3ページ|

次のページ
 
 
 僕はビデオカメラの液晶画面から目を離し、肉眼で自分の息子を見た。幼稚園の運動会、かけっこのプログラムで息子は四人中三番目にゴールした。僕に似てしまったのか足はそんなに速くないようだ。一番目の子と二番目の子とはかなり差がでてしまった。それでも彼は特に悔しがるような素振りもなく、終始笑顔で楽しんでいた。僕と妻の姿を見つけると手を振って、両親が見守っていることを喜んでいた。屈託のない素振りに僕も自然と頬が緩んだ。
「康太、頑張ったわ。」
妻は運動会のざわめきに負けないよう大声で息子の健闘を讃えた。息子はこちらの方に駆けてきた。僕は右手に持っていたビデオカメラをリュックにしまい、彼を抱きしめ持ち上げた。先ほど走ったばかりなので彼の体は熱かった。額からは汗が流れている。この子が僕の息子で、ここにこうして生きているんだと不思議と実感する。それが実感できることは恐らく、この世で何よりも喜ばしいことなのだ。
「康太、来年は小学生なのに、甘えん坊。」
と妻が息子を冷やかした。
「本当、大きくなったなぁ、もう小学生か。道理で重いもの。」
息子はただ、僕の胸の中でけらけらと楽しそうに笑って応えた。
「早いものよね、小学生ですって。」
「君が小学生になったのは何年前のことかな?」
「そういうこと聞かないでよ。」
「もう遠すぎて覚えていないかい?」
「よして。」
妻は僕の方を小突いて僕の揶揄に応戦した。僕は妻の態度が可笑しくて愉快な素振りをしつつ、頭の中で自分が小学生に上がる前のことを思い返していた。自分の言った揶揄がきっかけでふと思い出したことがあった。僕はその時のことを今でも鮮明に覚えている。5歳くらいの子供の頃の記憶であり、それを鮮明に覚えていると人に言ってもどこまで信頼してもらえるのかは解らない。それに、この記憶は例え大人になった今起こった話として置き換えても誰も信じないだろう。ただ、これは僕の中では地球が存在するのと同じくらい確かなものであり、今腕に抱いた自分の息子と同等に掛け替えのない思い出なのだ。あれはおよそ30年前、丁度息子と同じ小学校にあがる直前の春のことだった。

 僕は母に手を引かれ、病院のリノリウムの床をとことこと歩いていた。地元に古くからある病院で、今も現存しているが当時としてもかなりやつれた建物だったのを覚えている。蛍光灯が点いているのにも関わらず妙に薄暗く、その対比のせいで窓から差し込む日光が強烈に映っていたのが印象に残っている。この病院の二階に、従兄弟の翔也くんは1年以上も入院生活を送っていた。 病室に入ると、いつも翔也くんの母親がベッドの傍らに腰を降ろし、リンゴをむいたり蜜柑をむいたりしていたのを覚えている。そして僕たち親子が入ってくるのを見ると、立ち上がり丁寧に頭を下げて挨拶をした。翔也くんも(主に僕の方を見て)手を振って僕たちを出迎えてくれる。翔也くんはベッドに体を寝かせたままで、上半身を起こすこともできない。鼻には呼吸補助の為のチューブが通され、腕にはいつでも点滴の針が刺さっていた。ベッドの横には心電図等大掛かりな装置が台車に目一杯設置されている。
「翔ちゃん、調子はどう?元気?」
と母が翔也くんに尋ねるのが第一声の決まりのようになっている。僕はその傍らでいつも思っていたが、翔也くんはとても元気だと言えるような様子ではなかったし、元気そうだった時など見たことが無かった。顔は常に真っ白で血の気が無く、唇は人間のものではないみたいに紫色をしていた。どこか爬虫類のような、とても冷たそうな唇に僕は思えた。翔也くんはその唇を全身の力を奮い立たせるように何とか動かすように、いつもゆっくりと微笑んで応えていた。彼がその時、どんな気持ちでそのように微笑みを返していたのか僕には想像もつかない。僕は母の横で、そんな彼の様子を黙って見つめることしかできなかった。自分の中で子供ながらに、いつも己の無力さを感じずにはいられない瞬間だった。
 母と母の妹である翔也くんのお母さんが話をしている間、僕と翔也くんはいつもすることがなく、退屈な時間を共有していた。幼稚園に通う僕と、ずっと入院生活を送る翔也くんの二人の間には共通の話題というものが無かった。僕たちは終始無言で、その気まずさを持て余すように目があうかあわないかの微妙な距離感で佇んでいた。この時間が、僕には恐ろしく長く感じた。翔也くんはどうだったのだろう。いつ消えるとも知れない命という自分の運命を理解していただろうか。理解していたとして、何かの時間が長く感じることがあったのだろうか。僕には解らない。でも恐らく彼は退屈していただろうし、母親たちの会話が終わるのが待ち遠しかったに違いない。早く日が暮れ始めないかと思っていたに違いない。僕もそう思っていたし、僕と翔也くんには共通の話題は無くても、同じ感覚を共有していたのだということを今でも信じている。この感覚のことは誰かに言って信じてもらえることではないだろうし、僕たち二人が共に体験したことは二人だけのものであり、二人だけが価値を見出せるものであり、恐らく永遠にそうであり、僕の心の内から外にでることは僕が生きている間には起こらないだろう。もし僕が死に、魂と呼べるものがあり、そして翔也くんと再会するようなことがあったなら。
 天国という無限の世界で、あらゆる歓喜と自由が、すべての価値観が認められ、誰もがひとつの感動のもとに集えたなら。それはその限りではないかもしれない。それまでこれは僕の心の中にしまって置かれる思い出なのだろうと思う。
 母親たちが別れの挨拶をする時。僕と翔也くんは秘密のうちに目配せをする。二人だけに通じる暗号のようなものだった。また後で。二人は心の中でこう約束するのだった。
 病院から帰る時間、ちょうど日が暮れ始める。空は紅く燃え世界をその色に染める。ありとあらゆる影が何かの力に引っ張られるみたいに伸びていく。僕の影も僕の手をひく母親の影も、それが自分たちの物ではないみたいにどこまでも伸びていく。空にはカラスたちが鳴いている。まるで影そのもののように黒い羽をはためかせて飛んでいく。世界のなにもかもが、赤いか黒いか、その二つに分けられているような気がした。
作品名: 作家名:ぱかぽんと