無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
今の当主オンソクは野心だけはあるが、生来頭の悪い使えない男である。彼が使道となってここに赴任してから日毎、贈物を抱えてはご機嫌伺いにやってくるようになった。オンソクの狙いは火を見るより明らかだった。中央と繋がりのある使道に取り入り、何とか政界復帰、都に帰還できるように画策しているのだ。
オンソクの賄賂は実に多彩であった。使えない男ではあるが、その熱心さだけは評価してやっても良いと思う。
使道―呉弼参(オ・ピルサム)は無類の女好きなのだ。そこで、オンソクは町で見かけた美しい娘たちを次々に攫い、ピルサムの許に送ってきた。しまいには未婚であろうが、人妻であろうが、見境なくかっ攫ってくるようにさえなった。
ピルサムはオンソクの魅力的な賄賂をありがたく受け取った。生娘好きの彼のために、オンソクは町だけでなく、近隣の村にまで手下を走らせ美しい娘を攫った。が、いつも生娘ばかりというわけにもゆかず、若く美しければ、人妻も攫ってきた。母に泣いて取り縋る幼子を殺してまで、若妻を連れてきたこともある。
そこで、ピルサムは舌打ちした。止そう、あの忌々しい夜は思い出したくもない。結局、母のチマの裾に取り縋って泣く子を殴り殺してまで攫ってきたその母親は、彼が触れる前に自ら生命を絶って果てた。
そういえば、今宵、オンソクが寄越した妓生はあの人妻に似ていないこともない。小股の切れ上がった俗にいう良い女だ。見た目はどこまでも貞淑そうなのに、いざ閨に入れば別人のように奔放になる。そんな危うい色香が漂っている。
彼はまた飽き性でもあったため、一晩抱いた女を続けて抱くことはない。一晩中慰み者にした女はオンソクの意を受けた手下が朝方には始末し、屋敷の近くにうち捨てるのが習いだった。町では早くから新任の使道が町の女たちを攫って陵辱しているのだと噂していたものの、決定的な証拠がない。
そのため、町の住人は冷酷な悪鬼が夜毎、うら若い娘を攫っては喰らい尽くすのだと怪談めいた話に変えて使道の悪行を噂していた。むろん、町の人々はその鬼の正体を使道だと知っているが、事情を知らず被害者がまだ出ていない近隣の村々では、その怪談を心底から信じている者も少なくはない。
しかも相手が相手だけに、迂闊に人前で話していて役人に聞き咎められでもしようものなら、すぐに役所に連行される。下手をすれば、不敬罪で即斬首だ。現に、娘たちが次々に攫われては無残な骸となっていくことに対して、幾度かは役所に嘆願が出された。しかし、訴えてきた町の男たちはことごとく役所から生きて出ることは叶わなかった。
そんなことを繰り返している中に、誰も表立って使道の悪行を暴こうとする者はいなくなった。今や、この町は彼の思うがままだ。
ふいに伽耶琴の音色が止んだ。弾き手のやや年増の妓生が静々と退出していき、後にはピルサムとうら若い妓生だけが残された。
「旦那さま(ナーリ)、まずはご一献召されませ」
妖艶な妓生が酒器を掲げ、指し示して見せるのに、ピルサムは口の端を引き上げた。
「いや、今宵はもう酒は良い。これ以上飲んでは、流石の儂もこのまま酔いつぶれて、何もできなくなってしまいそうだ」
そして、意味ありげな一瞥を投げる。
「そなたは、それでも良いのか?」
すると、妓生は白い頬をかすかに染め、拗ねたように口を尖らせた。鮮やかな牡丹色の紅を引いた唇が男を誘うように笑みを刷いている。
「まあ、旦那さまの意地悪。私の気持ちは既に十分お判りになっていらっしゃるでしょうに」
恨めしげな視線で下から掬い上げるように見つめられ、ピルサムの膚にピリリと震えが走った。零れんばかりの色香が女のまなざしから滴るようではないか。
まさに、傾国の美貌といって遜色のない仇めいた美姫だ。オンソクもよくぞ田舎町でこんな垢抜けた美女を捜し当ててきたものだとピルサムは久々に極上の獲物を前にした昂ぶりのようなものを感じていた。
「そなたほどの妓生は田舎町には惜しいな」
ピルサムは自分の口許がだらしなく緩みきっていることに気付いていない。もちろん、心得た妓生もそれは見ぬふりで、極上の笑顔で応える。
「所詮は田舎者に過ぎませぬ。都で評判の名妓の方々には及ぶべくもないでしょう」
ピルサムは笑った。
「何の、そなたほどの美貌であれば、天下一の妓生ともなれよう。そなたの流し目一つでもしや国王殿下の御心さえ動かせるやもしれぬぞ」
妓生が微笑み首を振る。
「まあ、何を仰せられますやら。田舎町のしがない妓生には国王さまなどと、あまりにも畏れ多いことにございます。それに」
彼女が媚を含んだまなざしをピルサムにくれた。
「私がその心を頂きたいのは国王さまではありません、使道さまなのですから」
ピルサムは笑み崩れた。彼がここまで感情を露わにするのはまずあり得ない。よほど妓生に心を奪われてしまっているようである。
「愛いことを申すヤツだ」
手を伸ばして引き寄せようとするのを妓生はやんわりと押しとどめ、またピルサムにねだるような視線を寄越す。
「それならば、このような趣向はいかがでしょう、旦那さま」
妓生は静かに立ち上がり、胸に手のひらを添えた。何をするのかと思えば、室の片隅に置かれている小箪笥に近づく。紫檀の螺鈿細工を施された小箪笥の上には白磁の壺があり、木槿の花束が活けられていた。
妓生はその木槿を一輪だけ手にし、また戻ってきた。興味深げなピルサムの前で、彼女は木槿の紅い花びらをひとひらだけ摘み取り、盃に入れる。そこに並々と酒を注いだ。
「?月(スウォル)特製の花見酒、または木槿酒にございます。いかがにございますか?」
ここまで言われて男として飲まないわけにはいかない。彼は鷹揚に頷いた。
「なるほど、実に風流であるな」
ピルサムは勧められるままに、再び盃を手にした。ひと口飲む度に、心地良い酔いがじんわりと身体中にひろがってゆく。
「そなたの名はスウォルと申すか」
「はい、使道さま(サットナーリ)」
彼は片手を回し、スウォルと名乗った妓生の肩を抱き寄せた。
「天下の名妓には真にふさわしき名ではないか。そなたの類い希な美貌を讃えるかのようだ。どうだ、儂と共に都に参らぬか?」
スウォルが棗型の黒い瞳をわずかに開いた。
「私を都にお連れ下さるのでございますか?」
「そなたが望むなら、連れてゆこう」
妓生の黒曜石の瞳が妖しく煌めいた。
「嬉しうございます。さりながら、使道さまの任期はまだあと二年は残っているのではございませんか?」
酒を過ごして気の緩みきったピルサムはつい口を滑らせた。
「いやいや、奥の手を使うから、翌年には都に戻れるはずだ」
スウォルがいささか大仰に思えるほど愕いて見せる。
「まあ、来年にはもう戻れると? 旦那さま、一体、どのような奥の手をお使いに?」
「ん? それはだな」
口ごもったピルサムが持つ盃がまた満たされた。
「さ、木槿酒をどうぞ」
「あ? ああ」
ピルサムはまた盃を干した。妓生がそのたおやかな身体をすり寄せてくる。まるで飼い主の膝で喉を鳴らす甘えた猫のようだ。
「私には教えて下さいませんの?」
下から妖艶に微笑みかけられ、ピルサムはまたカッと身体が熱くなった。
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ