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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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「私が使道の密偵か何かと思ったの?」
 ソンスが鼻を鳴らした。
「密偵にしては隙がありすぎた。あんなにすぐに尾行を気取られる玄人(プロ)の密偵はいない」
 ソンスがじいっと見つめる。ともすれば速くなりそうな鼓動を懸命に抑え、ソナは彼の視線をさりげない風に受け止めた。
「本当に危険は承知なんだな?」
 念を押すように再度、問われる。
 ソナは微笑んだ。
「もちろんよ。シン・ソナを甘く見ないで欲しいわね。これでも、弱い者の味方、悪を許しちゃおかないのよ」
 ソンスが吹き出した。
「本当なのか? スンサンにちょっと身体を触られただけで泣いていた癖に?」
「あれは」
 ソナが言いかけるのに、ソンスは真顔になった。
「ところで、あいつはもう来なくなったのか?」
「あいつ?」
 ソンスが焦れったそうに繰り返す。
「スンサンだよ」
 ソナは笑って頷いた。
「ソンスのお陰よ、よほど懲りたんでしょ。何しろ、かなりの距離を投げ飛ばされて、顔に数日は消えないアザができたらしいから」
 ソンスが茶目っ気たっぷりに言った。
「そいつは良かった」
 ソナはソンスを見て言った。
「あなたがもう一年も前にこの村に来ていたなんて、知らなかった」
 ソンスが屈託ない笑みで応えた。
「小さな村とはいえども、広いからな」
 実際、木槿村の人口は極めて少ないのだが、村域はかなり広範囲に渡っており、少ない人家が点在している。ソナの場合も隣家まで歩いて十数分はかかるほど離れているのだ。
 ソンスは更に無口で人付き合いもあまりなかったというから、ソナがソンスの存在を知らなかったとしても無理はなかった。ソナもまた積極的に人と交流する方ではなかったからだ。
酒場は村の男たちの堪り場である。酒場で働いている分、村人や村の情報には通じていると自負していたのだが、ソンスはこれまで酒場に現れたことはなかった。 
 ソナは先刻からずっと気になっていたことをつい訊かずにはいられなかった。
「ソンスはここに来るまではどこにいたの? 許嫁に逃げられたって話してたけど」
 ソンスが破顔した。
「何だ、俺のことまで探る気か? 言っとくが、俺は偽金作りとは関係ないぞ」
「それで疑って訊いてるわけじゃないわよ。その、何となく気になって」
 正直に言うと、ソンスが声を上げて笑った。
「そんなに俺のことが気になるか?」
 ソナは真っ赤になった。
「ち、違うわよ。ちょっと、その―気になっただけなんだから!」
 ソンスは笑いながら言った。
「フラレたのは本当だ。祝言を前に、ちょっとやらなければならないことができて、結婚を少し先延ばしにして欲しいと言ったら、あっさりとフラレたんだよ。その後、別の男とさっさと結婚したと聞いた。まあ、俺みたいな男よりは、地道な家庭を築ける男に嫁いで正解だったんだろうな」
 ソナは紅くなりながら言った。
「そんなことはないと思うわ。一介の民でありながら、他の人たちのことを真剣に考えて使道たちに立ち向かおうとするソンスの姿は―見ていて、何というか凄いと思うもの」
 ソンスが冷やかすように言った。
「何だ、俺に惚れたのか? 俺も独り身だしお前も独り身のようだから、使道の件が片付いたら、嫁に貰ってやっても良いぞ」
 ソナはもう茹で上がったように真っ赤だ。身体が熱くて恥ずかしい。
「良い加減にして。あなたこそ、やっぱり、他人から自惚れが強い男だって言われたことがあるでしょ」
 ソンスはもう、大笑いしている。
「また話を蒸し返すのか、見かけによらず、執念深い女だな」
 紅くなってそっぽを向いたソナに、ソンスの温かな声が聞こえた。
「だが、俺もだよ、ソナ。自分は無力だと言いながら、他の者のために一生懸命に危険を犯してまで努力しようとする。ソナのその生き方、考え方に惹かれる。ソナの身は俺ができるだけ気を付けて守るから、協力してくれ。ソナが味方になってくれたら、俺も心強いし助かる」 
「―判った」
 ソンスが差し出した手に、ソナの手が重ね合わされた。大きな手で小さな手を包み込まれる。
 ソンスはソナの瞳を真っすぐに見つめた。
「ただ、これだけは約束して欲しい。けして無理はしないこと。危険だと思ったら、それ以上は踏み込まずに後は俺に任せてくれるな?」
「ええ。あなたの言うとおりにするわ、ソンス」
 何故だろう、ハンによく似たこの瞳にこうして見つめられる度に、心がふるえる。ソナはあまりにも昔の男を思い出させるソンスのの漆黒の瞳から眼を逸らせなかった。 
 
 潜入

 伽耶琴(カヤグム)の得も言われぬ調べが夜陰のしじまに響き渡る。五月の夜のとろりとした闇と艶めかしい音色が絡み合い、溶けてゆく。
 一人のたおやかな女が伽耶琴の音色に乗り、室の中央で舞っている。複雑な形に編み込んだ長い髪は頭上で巻いて留め、煌めく紅水晶の簪が艶やかな髪を飾っている。纏う衣装はチョゴリが深紅、チマが蒼。いずれも眼が覚めるような鮮やかな色合いで、女の膚の白さを際立たせていた。深紅の上衣には木槿の花がより紅い色で染め出され、ふわりとひろがるチマは無地、更にその上に同色の紗を重ねているため、花びらが重なっているようにも見える。
 その華やかな衣装は女がくるりと舞う度に、爛漫と咲き誇る大輪の花がそよぐように揺れる。さながら美しき花が蜜を求めて花園をさまよう蝶を誘うように。しかし、女の端正な横顔はどこまでも凜として、到底、男を誘っているようには見えない。なのに、時折、視線を心もち動かすその仕種は、明らかに男の好き心をくすぐる媚態を孕んでいた。
 女のいでたちは、どう見ても男客に春を売る妓生であった。女の身体はまるで風にあてどなく漂い流れる花びらのように軽やかに動く。その艶姿を室の上座に座った男が座椅子(ポリヨ)にもたれて眺めている。
 四十年配のその男は中肉中背、顔はといえば、まず男前の部類には入るだろうが、その細い眼(まなこ)の底にはいかにも残忍そうな光がまたたいている。その冷たい光を帯びた双眸は何とはなしにハ虫類を彷彿とさせた。
 鶯色の座椅子にしどけなく身を預けている男は、この地方一帯を治める使道(地方代官)であった。酔いにほんのりと赤らんだ眼の縁が、この男が既にかなりの酒量を過ごしていることを窺わせる。もっとも、普段から彼はここまで―我を失うほどに酒を過ごすことはない。
 役目柄、人に恨みを買うことはあって当然だし、自身が裏で行っていることを考えれば、いつ何時、生命を狙われても不思議はないと思えたからである。
 ところが、である。今夜だけはいつもと勝手が違った。腰巾着のチェ・オンソクが寄越した妓生は勧め上手で、平素から油断を怠らぬ彼もいつしか乗せられて酒を過ごしていた。もう、いかほど飲んだか自分でも判らない。
 チェ・オンソクはしがない地方両班だ。数代前の祖先は都にいて、兵?判書(ピヨンジヨパンソ)を務めたこともあるという家柄だが、その人物も政争に敗れ、この地方に飛ばされた。以来、崔氏はずっとこの地方で暮らし、鳴かず飛ばずの逼塞した日々だ。