無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
「それについてなんだけどさ、二つ向こうの隣町では両班ではないが、たらふく金を持った富豪がいて、そいつが好き放題をやってたらしい」
二人連れの中の背の高いひょろ長い男が言い、傍らの小柄な太めの男が小さく肩を竦めた。
「確か米の買い占めだったか?」
長身が我が意を得たりと頷く。
「そうそう、米を買い占められるだけ買い占めて、飢饉の年に売りに出したから大変だ。米の値段が上がるところまで上がっちまって、俺たちみたいな貧乏人にゃア、買えやしねえ。やむなく漢陽に出稼ぎにいったり、年端もゆかねえ娘を妓房に売り飛ばしたりする者が後を絶たなかった」
ソナが溜息をつき、首を振った。
「そういえば、二年前はここら辺りも飢饉とまではいかないけれど、米の出来は良くなかったわね」
と、太めの方が我が事のように得意げに言った。
「そこに暗行御使(アメンオサ)さまが颯爽と現れたのさ」
「暗行御使?」
ソナが素っ頓狂な声を出すのに、背の高い男にたしなめられた。
「大きな声を出すなよ。相手は隠密だぜ」
「そ、そうね」
ソナも慌てて口を抑えた。
暗行御使、判りやすくいえば、隠密である。国王から全権を与えられ、地方の様々な場所に派遣される臨時の役職だ。隠密と名のとおり、元々の身分は国の官僚であり両班であるが、正体を隠して常に変装して諸国を巡る。
派遣された先々の民に混じり民の生活や実態を探り、悪政が行われていれば、その地方官を処断する。あるときは乞食に身をやつしていることもあるといい、身に憶えのある悪政を敷く地方官はこの暗行御使を何より怖れていた。いつ、どこに現れるか判らないのだ。
暗行御使は老いた官僚では務まらない激務であり、大抵は正義感の強い若い官吏が抜擢された。派遣地は王命によって告げられるものの、その委任状は暗行御使が都を出てから初めて開封することを許される。また出立の日を知るのは国王と議政府の三丞承と本人だけであり、家族にすら別れを告げることは許されなかったという。
その地方の悪政に悲鳴を上げた人々が都の国王に上訴し初めて悪事が露見し、それから暗行御使が王によって派遣される。正体を隠して長旅を続け派遣地に至り、更に現地に潜入して民情を探り出す。
暗行御使はその地に潜入して捜査を続け、地方官の悪事を暴き罪人を都に送る。大変な仕事ではあったが、無事に務めを終えて都に帰還した暁は普通なら十年はかかる官僚の出世コースを一足飛びに飛び越えて出世できた。いわば高官へのエリートコースが約束されている任務でもあった。
暗行御使は国王から遣わされた御使である証、馬牌(マペ)を常に携帯しているという。
「まっ、その隣町では暗行御使さまが良い案配に裁いて下さって、そのあくどい米屋と更にそれと結託していた両班の因業爺は相応の罰が下されたそうだ」
太めが声を抑えて言い、長身が幾度も頷いた。また太めが口を開いた。
「羨ましい話だろ、この町にも御使さまが来て下されば良いのにな。結局、俺たち庶民はいつも両班の前には泣き寝入りさ、死んだ娘は弄ばれるだけ弄ばれて二度と戻ってこねえしよう」
と、背の高い方が慌てて太めの口を抑えた。
「おい、言葉を慎めよ、それじゃなくても、あくどい両班や地方官は御使さまがいつ出るか、いつ来るかと疑心暗鬼になってるんだからな。滅多なことを聞きとがめられちゃ、自分の身の破滅だぞ」
「だな、済まねぇ」
その時、二人のやりとりを黙って聞いていたソンスが初めて口を開いた。
「ありがとう、お陰で興味深い話を聞けた。ま、一杯やってくれ」
ソンスはソナが運んできた銚子を持ち、眼前の男たちの盃にそれぞれ注いだ。
長身の方が盃を干し、ソンスに親しみ深く訊ねた。
「確か兄さんが村に来たのは一年ほど前だな。あんまり村の連中と拘わりも持たねえし、随分と変わったヤツが来たと皆、話してたんだが、意外と話のできる男だったと話しておくよ」
ソンスもまた人懐っこい笑顔で頷いた。
「そいつは助かるよ。以前に住んでいたところで、言うのも恥ずかしい話だが、許嫁に逃げられてね、それでいまだに人前に出られなくなってしまったのさ」
太い方が細い眼を目一杯に開いた。
「兄さんのような上男をフるなんて、何という身の程知らずな娘っ子だろうな」
と、背の高いのが太いのをつついた。
「こっちがフラレるんなら、お前が振られるのは当たり前だ」
「ええい、いちいち減らず口ばかり言うヤツだな」
仲が良いのか悪いのかよく判らない二人に、ソンスは愛想の良い笑顔を向けている。
二人が元の席へと戻っていったのを確認したように、ソンスが話を再開した。
「先ほどの話だが」
ソナも頷いた。
「偽金作りと若い娘が陵辱されて殺される件ね?」
「ああいう善良な人々でさえ、心を痛めて何とかして欲しいと願っている。使道の悪政は最早、許し難いな」
ソンスは小さく首を振り、溜息をついた。
「実はソナ、俺も同じ土地に住む同士として、それを何とかしたくて、町では色々と使道について聞き回ってたんだ」
「そうだったのね」
ソナは少し考えた末、言った。
「それは私も同じだわ。私もここに来て、もう三年になるのだもの。土地に対する愛着もあるし、何より同じ女として使道のすることは許せない」
ソンスは唸った。
「大方の絡繰りは見えている。恐らくこの村のジャコビの工房で偽金が造られている。そして、それを少しずつ町に流通させているんだ。偽金作りに直接関わっているのは両班の崔彦?(チェ・オンソク)、それと使道が結託して甘い汁を吸っているんだろう。となれば、黒幕は使道だ」
ソナは浮かんだ疑問を口にした。
「チェ・オンソクには使道と結託して言うなりになって、何か良いことがあるの?」
ソンスは考え込んだ。
「チェ氏は何代か前は朝廷で幅を効かせた時期もあったが、今は地方に引っ込んだままの逼塞した地方両班にすぎない。大方、使道は甘い汁を吸わせてくれる代わりに、ゆくゆくはオンソクが朝廷に返り咲けるように口利きするとか何とか適当な甘い餌をちらつかせているんだろうよ」
「そんなことができるのかしら」
ソンスがやや冷めた笑いを刻んだ。
「どうかな。地獄の沙汰も何とやらとは昔から言うからな。ただ、国王さま(サンガンマーマ)は、そういう腐った地方官や両班はけしてお許しにはならない。いずれ使道やチェ・オンソクはそれなりに報いを受けることになるはずだ」
ソンスはまた大きな息を吐いた。
「とにかくヤツらの絡繰りは見えているのに、その罪を暴くだけの証拠がない。今のところ、打つ手がないんだ」
ソナが瞳を輝かせ、身を乗り出した。
「私が探ってみるわ」
ソンスの黒瞳が射るように大きく見開かれ、ソナを貫く。
「馬鹿な、危険すぎる。事は偽金作り、国の基盤を根底から揺るがすような大事なんだぞ? ソナはそのことを判っているのか」
ソナはハッとした。
「だから、今朝、町で私を脅したのね」
迂闊にも今まで、思い至らなかった。ソンスはソナが彼の敵か味方かあのときはまだ判別がつかなかったに違いない。彼が使道の悪行についてひそかに探っていることを逆に使道方に密告されてはまずいと思ったのだ。
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ