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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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 この無限の闇が孕むものを、ソナは何であるか知っている。それは、孤独。最初の恋人ハンもまた国王という至高の地位にあり、長らく孤独に囚われていた。王は我が身のことより、常に民草のことを考え、民の暮らしに心を寄り添わせねばならない。
 だからこそ孤独なのであり、王という立場ゆえに悩み苦しみ抜いた一生だった。幼いときから常に毒殺の危険とも隣り合わせに生きてきたのだと哀しげに語っていたこともあった。
 この男の深い瞳は、孤独なハンに似ている。
―だから、こんなにも気になるのだろうか。
 一見、平凡などこにでもいる農夫のように見えながら、隙のない身のこなし、油断のならない視線はどう見ても農夫であるわけがない。遠ざかってゆく男の背中を見つめながら、ソナはぼんやりと考えた。
 
  噂

 ソナは先刻から、ずっと視線をその男から離さないでいた。そう、あの酒場でソナの窮地を救ってくれた男が少し離れた前方にいる。ソナが彼を見かけたのは、ほんの偶然に過ぎなかった。
 だが、自分ではあまり認めたくないことだけれど、前回彼に助けられてからというもの、ソナの心からあの面影が消えることはなかった。村ではあまり見かけない顔だが、どこに住んでいるのだろうかと気になった。かといって、わざわざ探し回るのもおかしい。
 ゆえに、数日後に町まで出かけた時、あの男に遭遇したのは神の計らいとしか思えなかった。その日は絹店から頼まれたリボンを届けての帰り道だった。髪飾りのような小物は格安なので、若い娘たちによく売れる。前回も予想外に出たので、臨時で納品して欲しいと依頼され、眠る時間も削って仕上げたのだ。
 男は今、ソナの少し前で熱心に露店の主人と話している。鶏肉屋の五十絡みの主人とはまるで十年も昔からの知り合いのようだ。
 聞こえてくる二人の会話から、彼が鶏肉屋にとって初めての客であることは直に知れた。その日、ソナは初めて取っつきにくそうな彼にそんな人懐っこい顔があるのを知った。
「そりゃあ、あんたもう幾ら両班だからって、見てられない横暴ぶりだよ。崔氏の旦那さまの女好きにはつくづく呆れちまうさ。ちょっと良い女だとくれば、未婚の娘であろうが、人妻であろうが、かっさらってきくるのさ」
「両班の権力を笠に着て、随分とあこぎなことをやっているようだな」
 唾を飛ばす鶏肉屋に、男は適当に相槌を打っている。
「だが、幾ら両班だからって、そこまでされて黙ってるのか? 地方役所に訴え出るとかしないのかい」
 鶏肉屋は肩を竦めた。
「そんなことができるわけないだろう。されわれた女は大抵、一晩中慰み者にされた挙げ句、門前で骸になって転がってるのさ。そりゃ、一度や二度は義侠心のある連中が役所に掛け合いにいったことあったけど、そんなヤツらは二度と生きて帰ってこなかった。崔氏の旦那は人の生命を何とも思わないような鬼畜だからな、うっかり楯突けば、こちとらまで殺されちまう」
 男が鷹揚に頷いた。
「なるほど、そういうことか。だから、崔氏の旦那がどれだけ反感を買っていても、誰も表向きは楯突かないってわけだ」
 鶏肉屋が声の調子を落として男に近づいた。
「大きな声じゃ言えないが、崔氏の旦那はこの地方一帯を治める使道とグルなのさ。だから、俺たち民が幾ら役所に畏れながらと訴えたって、無駄なんだ。何でも女を攫って犯すのは崔氏の旦那じゃなくて使道の方だという噂もあるほどだからな」
 男が興味深げに頷く。
「なるほど、女を攫うのは自分の性欲を満たすためではなく、使道への貢ぎ物だと?」
「まっ、そうじゃないかなって噂だよ」
「それで、ご丁寧に使道が好き放題に犯した女の後始末まで引き受けてるって寸法か」
 男はしばらく思案顔でいたが、やがて鶏肉屋に訊ねた。
「その崔氏の旦那が木槿村の銀細工工房に足繁く出入りしているという話を聞いたんだが」
 鶏肉屋が細い眼をしばたたき、男を初めて胡乱な眼で見つめた。その眼には先刻までと異なり、明らかに警戒心が漲っている。
「あんた、何でそんなに使道や崔氏の旦那のことを訊きたがるんだい? 俺もちっと喋り過ぎちまった。この辺りにはよく使道の手下がうろついてるから、迂闊なことは言えないんだ。悪いが、そろそろ引き取っちゃ貰えないか」
 男はそれ以上深入りはせず、頷いた。
「済まない。色々と訊いちまったな、少ないが、これは礼だ」
 男はまた例の巾着を出し、小金を鶏肉屋に握らせた。鶏肉屋が小さな眼を丸くした。
「そうかい、こりゃ申し訳ないねぇ」
 鶏肉屋はほくほく顔になって男に礼を言っていた。
 町の目抜き通りなので、今日も大勢の人が行き交っている。道の両端に様々な露店が建ち並び、客を呼び込む露天商の声が飛び交っているのもかしましい。男が人波に紛れようとするのに、ソナもその少し後から付いて歩き始めた。少し歩いた頃、目抜き通りが途切れ、四つ辻に突き当たった。
 筆屋の店番らしい若い娘が居眠りしている見世で繁華街も途切れる。筆屋の前を男は右に折れて、見えなくなった。ソナも慌てて見失うまいと右に曲がった時、ソナの喉元にヒヤリと冷たいものが突きつけられた。
 それで、ソナはそこが突き当たりだと初めて知った。道はすぐに終わり、とうに店を閉めたらしい小さな商家があるだけだ。むろん、その前の小道には人どころか猫の子一匹見当たらない。
「―」
 ソナはか細い身体を小刻みに震わせ、自分に短剣を突きつけている男を見つめた。間違いなく、ソナが付けてきた男だ。
「何故、俺の後を付けている?」
 ソナはほぞを咬んだ。浅はかだった。これだけの隙のない男がソナごときの尾行に気付かないはずはないのだ。
「言え、どうして俺の周囲を嗅ぎ回っている?」
 更に刃の切っ先が押し当てられる。身を交わして逃げようとした刹那、男の手が背中に回り、抱き込まれる形になった。
「俺が本気じゃないと思っているな? だが、生憎と俺は本気だぞ。この鋭い刃がお前の白い喉を掻ききり、血が溢れでる様が見たいか?」
 ソナはかぶりを振った。
「ち、違うのよ、私は別にあなたを付けているわけじゃないの」
「じゃあ、何で俺と鶏肉屋の話を窺っていた?」
「それは―」
 ソナが口ごもると、男の漆黒の瞳と真正面から視線がぶつかった。澄み渡ったまなざしは一切の嘘は許さず、ソナの心の奥底まで見通すかのようだ。ソナの身体に震えが走ったのは恐怖ではなく、かつて彼女が心身を捧げて愛した男に酷似した瞳に射貫かれたからだった。
 男がフと不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、良い。俺の人を見る眼はこれでも意外に確かでな。お前の眼には嘘も邪悪なものもない。だが、ひと言言っておく、今後、俺の周囲を嗅ぎ回ることは許さん。興味本位でつきまとえば、お前まで危険に巻き込まれることになるぞ」
 最後の科白は脅すように囁かれ、男がソナから離れた。
「行け」
 ふいに突き放されたため、ソナの身体は支えを失い前方につんのめった。危うく転ぶところだった。両脚を踏ん張って何とか体勢を立て直した時、既に男の姿は狭い路地からは消えていた。

 その日の昼下がり、ソナは酒場の片隅で一人黙々と手酌で飲んでいる例の男を認めた。
―あんな物騒な真似をしておいて、よく顔を出せるものね。