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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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 もちろん、多くの村の若者は実直な働き者ばかりで、真面目にソナに求婚していた。しかし、ソナはそれらの求婚に対しては丁重に、無体に迫ってくる男たちには手厳しく断っていた。
 その中でも、スンサンは何度はねつけられても諦めない傍迷惑な崇拝者の一人である。
「なあ、ソナ。頼むから一晩だけでも、俺のものになってくれよう」
 いつしかソナはスンサンの腕に抱き込まれるどころか、座り込んだ彼の膝に乗せられたような体勢になってしまっていた。
「ソナの身体、やわらいなぁ」
 恍惚りと呟くスンサンの手がソナの胸のふくらみに触れる。ソナの纏っているのは木綿の質素なチマチョゴリである。上衣は紅で、チマは黄緑色。きちんと洗濯され繕いの跡などもないが、粗末なものだ。長い髪は後ろで髷に結い、これも何の変哲も飾りもない木の簪を挿しているだけ。
 胸許には葡萄石(プレナイト)の薔薇を象ったノリゲが控えめに飾られている。
「スンサン、止めてったら」
 今日の彼は特に悪酔いしているようである。いつもなら懇願すれば、この辺りで思いとどまってくれるのだが、今はいっかな手を放してくれないどころか、ますます調子に乗り、ソナの胸を上衣の上から嫌らしく揉み始めた。
「いやっ、止めて」
 涙の滲んだ眼で振り返り、スンサンを見つめる。ソナは睨んだつもりだったのだけれど、生憎と潤んだ瞳を向けられた男は余計に劣情を煽られただけだった。
「その瞳が堪んねえんだよな」
 ますますふくらみを揉む手が強く荒々しくなったそのときのことである。
「―おい」
 不穏な抑えた声が背後で響き、ソナはハッとして声の主を見上げた。長身の若い男がりゅうとして立ちはだかっていた。が、ソナの身体をまさぐるのに夢中なスンサンはまだ背後の男の声にも存在にも気付いていない。
「無抵抗な女に良い大の男が力尽くで迫るとは、この国ももう末だな」
 ふいに現れた男の動きは鮮やかなものだった。スンサンの空いている方の手を後ろからねじり上げた。
「い、痛ぇ」
 スンサンが呻き声を発して手を放すのと、ソナが慌てて彼から逃れたのはほぼ同時のことだ。
「お前も男なら、恥をというものを知れ」
 その一言と共に、スンサンの大きな身体が前方へ吹っ飛んだ。若い男が腕をねじり上げたまま軽く放っただけで、スンサンは木偶のように飛び転がった。その辺りにいた客たちが愕いて避け、小卓にぶつかった弾みで器が一、二個落ちて割れた。
「大丈夫か?」
 いつになく執拗だったスンサンの手で胸を弄られた感触がまだ生々しい。思い出すだけで恐怖で身の毛がよだつようだ。ソナが瞳をに涙を浮かべて身を震わせているのに、温かな深い声が気遣うようにかけられた。
 誰も助けれてくれなかった。この男が助けてくれなければ、ソナは今頃、どうなっていた知れたものではない。涙ぐんだ眼で見上げた先に、整った容貌の若い男がいた。先刻、ソナを助けてくれた男に間違いない。
 年の頃は二十代前半か。男と眼が合った瞬間、ソナの中で不思議な感覚―既視感とでもいえば良いのか、この男とどこかで逢ったことがあるような懐かしさに囚われた。
―ハン?
 かつて彼女が身も心も捧げて愛し抜いた男、この国の王イ・ハンに、突如として現れた男は似ていた。だが、その想いが単なる瞬間的な思い込みに過ぎないことはすぐに判った。
 この男はハンとは違う。小麦色に灼けた精悍な風貌に苦み走った男ぶりは確かに美男ではあるけれど、女人と間違いそうなほどの優男であったハンの美貌とはまさに対照的だ。
 武芸を嗜まなかった王と異なり、農夫らしい頑丈な体?は、この男が日々の労働に従事していることを物語っている。
―この人はハンではないわ。
 そう思った瞬間、虚しさがひろがる。馬鹿な私、一体、いつまで、あの方の面影ばかりを追えば気が済むというの?
「俺の顔に何かついているか?」
 唐突に問われ、ソナは自分があまりにも無遠慮に見知らぬ男を見つめていたのに気付いた。
 ソナは狼狽え、視線を背けた。
「助けて頂いて、ありがとうございます」
 小さな声で礼を言うと、男がかすかに頷く気配がした。
「俺はああいう手合いが大嫌いなんだ。自分より弱い者に力尽くで襲いかかるなんて、最低だからな」
 と、いきなり横から甲高い声が聞こえた。
「旦那、この娘が気に入ったのなら好きにして下さって構いませんが、旦那のせいで見世も商売あがったりでねえ。器が割れちまったし、スンサンは酒代も払わないで這々の体で帰りましたから、大損ですよ。旦那がその埋め合わせをしてくれないっていうなら、ソナ、お前の給金からその分はきっちりと差し引くよ」
 女将のヨナが渋面でソナに人差し指を突きつけて言い放った。男が静かな声音で言った。
「先ほどの件なら、別にこの娘が悪いわけではない。この娘は被害者で悪いのはスンサンという男なのだから、スンサンに弁償させるべきだ」
 女将がキッと男を睨んだ。ひと昔は美貌で鳴らした妓生だったという女将も四十過ぎた今はその名残は殆どなくなっている。
「余計なことは言わないどくれ」
 女将はソナに向き直り、腕組みをして続けた。
「お前が給金から天引きされるのが嫌だっていうんなら、今晩はその旦那の相手をして、お代を頂いて、その代わりをして貰おうか」
 男が息を呑んだ。
「女将、これだけあれば足りるか?」
 彼は袖から小さな巾着を出し、幾ばくかの金を女将に指し示す。その日暮らしの農夫にはいささか不似合いな持ち重りのする巾着に、ソナはふと不審感を憶えずにはいられなかった。
 そういえば、と、男がスンサンを一瞬にしてねじ伏せたときの情景が鮮やかに甦った。この男はスンサンはもちろん、ソナでさえ気付かない中にスンサンの背後に立っていた。
 この男は一瞬で気配を殺せるのだ。まるで影のように、いつしか忍び寄り相手に一撃を与えることができる。それでいて、どこにいても、不思議なことに圧倒的な存在感を放っている。
―この男、ただ者ではない。
 ソナの勘がそれを告げていた。
「ああ、それだけ頂ければ十分ですよ、旦那」
 女将の場違いなほど愛想の良い声が突如としてソナの耳を打った。我に返ると、先刻の男―ソナを助けてくれた―が女将に金を渡しているところだ。
「助けて頂いた上に、そこまでして貰うわけにはいきません。お金は後ほど、きちんとお返ししますから」
 ソナが言うと、男が笑った。初めて見る温かな笑顔に、何故かソナの鼓動が速くなる。
「気にしないでくれ。俺は自分が思うように動いただけで、特にあんたに礼を言われる筋合いじゃない」
 その時、ソナは気付いた。男の瞳があまりにも深く、底が知れないことに。そして、改めて思うのだった。かつて同じ瞳をした男にこの上なく惹かれ溺れたことを。
 ソナは初恋の男ハンとこの得体の知らない男が何故、外見は正反対であるにも拘わらず、似ているように見えてしまうのか判った。この瞳のせいだ。無限の闇へと続いていくようなこの瞳、漆黒の夜を閉じ込めたような深い瞳が同じなのだ。