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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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 ソナはそっと自らの髪に触れる。揺れる小さな石のついた簪を抜き取り、膝に乗せた。ソンスがこの簪を求婚の言葉とくれたのはまだほんのひと月前なのに、もう十年も昔のような気がする。冷たい手触りの緑玉に触れると、スウっとざわめいていた心が静まってゆく。
 ソンスに恨みはなかった。自分の生涯は初恋が終わったときに同じように終わったと思っていたから―、恨みようもなかった。他人はそんな自分を馬鹿な女だと嗤うのだろうが、ソナはむしろソンスに感謝さえしていた。もう一度、恋をするのも生きることを愉しむのもけして悪くはないと教えてくれたのが彼だったから。
 暦は六月に入り、木槿の花が今日も美しく庭を彩っている。そのときだった、チリリと芝垣に取り付けた戸が鳴った。ソナはその音にいざなわれるように顔を上げた。
 その視線の先、咲き誇るピンクの花を背景に、恋しい男がひっそりと佇んでいた。
「黙っていて、済まない」
 男がくれた詫びの言葉に、ソナは微笑みかけた。咎めるでもなく詰るでもなく。ただ慈母観音のような静かな微笑を浮かべる女に、ソンスは痛みを堪える表情で対峙していた。
 今日の彼は上物の蒼色のパジを着ている。鐔広の帽子を被ったその姿に農夫であった頃の面影はなく、どこから見ても別人だ。眼前にいるのはソナのよく知るソンスではなく、洗練された見知らぬ両班の若さまだった。
「馬牌を見せて」
 その頼みはソンスにも意外だったらしい。一瞬眼を瞠ったものの、すぐに腰に下げていた馬牌を差し出した。ソナは馬牌を手のひらに乗せ、丸い牌に刻み込まれた幾頭もの馬を愛おしむように指先で撫でた。
「本当に御使さまなのね。あなたのこと、ただ者ではないと思っていたけれど、まだ信じられないわ」
 ソナはふふっと童女めいた邪気のない笑いを零した。
「あの時、おかしいと思うべきだったのね」
 ソンスが訝しげに問う。
「あの時?」
 ソナは頷いた。
「あなたがすらすらと自作の詩を朗読してくれたときのことよ。農夫が詩なんて作るはずもないのに」
「本当に済まない。御使であると打ち明けたくても、どうしてもできなかった。公務での秘密は最後まで守らなければならない」
 ソナは馬牌をソンスに差し出した。
「私はあなたを恨んだりはしていないの。本当は心のどこかで、おかしいなとは感じていたんだと今になって思う。だけど、あなたがただ者じゃないと認めてしまえば、私たちの関係も終わりになる。それが怖くて自分でも気付かないふりをしていたのね、私」
 ソンスが息を呑んだ。また痛みを堪えるようにしばし眼を瞑り立ち尽くす。しばらくして開いたその瞳はもういつものように強い光を取り戻していた。
「ソナ、改めて求婚する。俺に付いてきてくれ」
 ソナが視線を動かし、彼をひたと見据えた。
「私は両班のお嬢さまじゃないのよ。あなたのご両親や親戚にはきっと認めて貰えないわ」
 彼が初めて笑った。笑うと、ソナがよく知る?ソンス?の顔になる。今日初めて見る彼の彼らしい笑顔だ。
「そんなことは心配するな。俺の父上も母上もなかなか俺に似て破天荒なお人たちで、普通の両班とは考え方が違う。特にお袋はソナを気に入ると思うぞ。俺が子どもの頃から息子ばかりで娘が欲しいと言っていたゆえ、きっとそなたのことも気に入るだろう」
「―本当に私で良いの?」
 ソナの声が震える。ソンスが大きく頷いた。
「俺が良いと言っている。何より、ソナより嫁は考えられない。頼むから、妻になると言ってくれ」
 ソナの眼に涙が溢れる。ソンスがそれから小さく咳払いをした。
「それと一つだけ訊ねても良いだろうか?」
 ソナが小首を傾げると、彼は意を決したように言った。
「そなたの最初の恋人だったという男について、少しだけ聞かせてくれ」
 ソナは何も言わなかったが、ソンスはその表情で諾と知ったようである。言葉を選びながら話を続けた。
「その男を忘れられるのか? 本当に俺で良いのか―、実はそう訊きたいのは、そなたの方ではなく俺だと思う」
 真摯な彼の視線をソナは逸らすことなく受け止め、微笑んだ。
「彼が死んだ後、抜け殻になったわ」
「―そんなに愛していたのか?」
 ソンスの問いに、ソナは素直に頷いた。
「初恋だったの。今でも彼がくれたノリゲを肌身離さず身につけてくるほどに」
 ソナは愛おしむように胸につけた葡萄石の胸飾りを撫でた。
―私はいつでも、どこからでも、そなたの幸せだけを祈っているよ。
 ハンの深い声と温かな笑顔がほんのひと刹那、浮かんで消えた。
「私はいまだに彼がくれたノリゲを身に付けているような女よ」
「どうしても、忘れられないのか?」
 張りつめたような静寂はすぐに終わった。
「いいえ」
 ソナはきっぱりと彼の瞳を見て応えた。
「彼のことは今でも愛してる。私にとって永遠に大切な想い出だから。でも、今は」
 ソンスを見つめた。
「あなたが好きよ」
「なら、良い」
 ソンスは深く頷き、その秀麗な面に屈託ない笑みが浮かんだ。今日の木槿村の空のように晴れやかな笑顔だった。
「俺は一度、残務処理と国王殿下への報告のため、都に戻らねばならない。その前にそなたを抱きたい、ソナ」
 男の瞳に切迫した光が閃いていた。

 二人は家に入り、服を脱ぐのももどかしく身体を重ねた。ソンスの熱い唇が喉元、鎖骨、乳房を辿る度、ソナの珊瑚色の唇からは艶めかしい喘ぎ声が間断なく零れ落ちた。その声さえも逃すまいとするかのように、ソンスがソナの唇を奪う。
 ソンスは自分が戻るまでソナに印を付けておくとでも言わんばかりに、その白い身体の至る箇所に口づけの花びらを降らせ、消えない跡を落とした。
「ソナ、俺が帰ってくるまで必ず待っていてくれ」
「―」
 ソンスが覆い被さったソナの瞳から涙が溢れ、頬を流れ落ちた。
「私はいつまでもここで待っているわ」
 もしかしたら、ソンスは二度と木槿村には来ないかもしれない。彼を疑っているわけではなかったけれど、人の心は季節のようにうつろうものだ。しかも、彼はこの若さで暗行御使に任ぜられるほどなのだから、将来は議政府の三丞承(チヨンスン)にも昇るほどの人だろう。
 そんな人がわざわざ都に戻ってまたこんな鄙の村まで女を迎えにくるとは思えなかった。
「俺を信じてくれ。必ず迎えにくるから」
 ソンスはソナの涙を唇で吸い取り、そのまま熱い唇はソナの唇を塞ぎ、また身体中を隈無く辿った。
 およそ半日、抱き合って過ごした彼が木槿村を立ったのは夕刻のことである。そのときも庭には木槿の花が咲き誇っていた。
 芝垣の戸が小さな音を立てるのが今日だけはやけに物哀しく聞こえ、ソナはまた泣きそうになった。
 泣いては駄目。ソンスはこれから都まで戻り、色々と今回の事件の後片付けをしなければならない。そんな彼に無用の重荷を背負わせるべきでないのはソナにも判っていた。
「行ってくるよ」
 そう告げて出ていったのはソンスなりの心遣いなのだろう。ソナはふと思いついて庭の木槿を一輪だけ摘み取り、ソンスに渡した。
「道中のご無事をお祈りします。行ってらっしゃいませ、旦那さま」
 頭を下げると、そのまま強く抱きしめられた。