無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
聞き憶えのある声に、ソナは弾かれたように顔を上げる。視線の先に、暗行御使が凜として佇んでいた。
紅い官服に官僚の着用する帽子を纏ったソンスはどこまでも威厳に満ちて凛々しかった。
そういうことだったのか。ソナは今、改めて我が身の迂闊さを知った。考えてみれば、思い当たる節は幾つもあった。ソンスが一介の農夫にしては品があり、教養もあることを訝しみながらも、最後まで気付かなかった―いや、気付かなかったのではない。敢えて自分は彼の真実の姿を見ようとはしなかったのではなかったか。
何故なら、彼がただ人ではないと知ったら、また恋しい男を永遠に失ってしまうから。
暗行御使さまが厳しい表情で使道に何か言っている。あの男は誰―、ソンスなの、それとも、私の知らない男?
御使の掲げた馬牌(マペ)が月の光を受けて燦然と光った。馬牌こそが御使の証であり、国王その人から王命を受けて派遣された隠密だと示すものだ。知らず涙が滲み、ソナの眼に光を放つ馬牌がぼやけた。
ソナは魂が抜け出たように立ち尽くしたまま、かつて恋人だと信じていた男を見つめていた。
暗行御使による使道オ・ピルサムに対する裁きは町の役所で行われた。使道やチェ・オンソクが捕らえられた翌朝のことだ。広場に筵が敷かれ、罪人たちが座らされた。前列に使道とチェ・オンソク、後列に彼らの手先となって働いたチェ家の執事や使道の手下たち数人だ。
いよいよ暗行御使が登場した。広場に面した役所の正面扉が開き、暗行御使が出頭、用意された椅子に座る。
取り調べが始まっても、押し問答の繰り返しだった。
「御使さま、私には一体、何のことや、まったく身に憶えのないことでございます」
こんな場合、大抵は誰もが口にする逃げ口上をこの男も使った。
「若い娘を攫っては夜毎犯し、翌朝には殺害して棄てるという畜生にももとるふるまい、更には偽金を作り私腹を肥やそうとしていた罪は許しがたい」
それでも、まだ使道はしぶとく言い逃れようとする。
「証拠はっ、証拠があるのでございますか?」
まだ若い御使はこの若さで国王の信頼を得るだけあり、秀でた良い面差しをしている。証拠はと逆に詰め寄られ、御使は余裕の表情で頷いた。
「証人をこれへ」
ほどなく一人のうら若い娘が役人に伴われて出てきた。娘は罪人たちから少し離れて用意された筵に座った。
「使道、残念ながら、そなたたちが犯した悪行はすべてこの娘が知っている」
御使は娘に向かって頷いて見せる。娘は軽く御使に一礼し、ひたと使道やチェ・オンソクを見据えた。
「御使さま(オサナーリ)、私は昨夜、間違いなくこの耳で聞きました。使道はひそかに木槿村の工房で作らせた偽金を屋敷の金蔵に隠しています。その偽金を今晩、裏山に隠すつもりだとそこのチェ氏の旦那さまと話していたのを私が聞いたのです」
使道は怒りで真っ赤になり、傍らのオンソクは狼狽で真っ青になった。
「なっ、お前、出たらめを申すでないぞ」
怒りに任せて怒鳴り散らすと、更には御使に言い募った。
「御使はこのような下女の戯言をお信じになるのですか?」
と、御使は意味深な笑顔を浮かべた。
「信ずるも何も、この娘は昨夜、私が使道の屋敷に乗り込んだ時、そなたに陵辱され、あまつさえ殺されかけていたところだったのだ。事件の当事者であることは明らかであり、娘が偽りを述べ立てるだけの動機も理由もない」
そこで、若い御使は更に笑顔になった。
「ところで、使道。この娘の顔に見憶えはないか?」
その言葉に、使道が見るとはなしに娘を見た。下女にしては垢抜けて美しい娘だとは思ったが、昨夜の娘と変わりはない。訝しげに御使と娘を見やった使道に、可憐なはずの娘の面に艶めいた微笑が浮かび上がった。
「使道さま、私を憶えておいでになりませんの? 宴の夜に可愛がって頂きましたスウォルにございますわ」
おおっと、使道が呻いた。
「やはり、お前だったか。どこかで逢ったことがあると思っていたのに!」
使道が射殺しそうな憤怒の形相でソナを睨めつける。どうやら、やっと新入りの下女と妖艶な妓生スウォルが同一人物だと判ったらしい。
「お前はあのときの」
娘が極上の笑みを浮かべた。
「スウォルにございます。その節は偽金のありかを教えて頂き、真に助かりました」
娘の言葉を引き取り、御使が続けた。
「使道、スウォルというの妓生はこの世に実在しない女だった。この娘こそが、あの夜の妓生だったのだ。あの夜、我々は偽金のありかを探るため、そなたの屋敷に潜入していた。スウォルはいわば、その手引きをしてくれたのだ」
使道が観念したようにガクリと肩を落とした。
「くそう、あの妓生が御使の手先だったとは」
御使がうなだれる使道に引導を渡すように申し渡した。
「既に銀細工職人のジャコビ初め数人の工房職人も身柄を拘束している。彼らは大切な家族を人質に取られ、使道に脅迫されて偽金作りを手伝わされていたと白状したぞ。最早、一切の言い逃れはできぬ。潔く罪に服すことだ」
こうして偽金作りと連続婦女暴行殺害事件は彗星のごとく現れた暗行御使の裁きにより、解決した。御使の裁きの内容は、使道オ・ピルサムは都に送還の上、市中引き回しの上の絞首刑、両班チェ・オンソクは流罪であった。他の連座した咎人にもそれぞれ相応の処分が下された。
ソナは小さな息を吐いて、頭上を見上げた。振り仰いだ空は涯(はて)なく蒼く、片隅に真綿を細かくちぎって浮かべたような雲がちらほらと見えた。
木槿村は今日も長閑で、隣家までかなりの距離があるため、ソナの小さな住まいはいつものように、ひっそりと静まり返っていた。
到底、あのような大事件がこの辺り一辺を賑わせたとは信じられないほどの静けさである。使道が都に強制送還されて数日を経た。仮にもこの地方を治める役人、国の官吏が急遽現れた隠密に逮捕、罪状を問われたのだ。
この辺りの町や村は大騒ぎに陥った。が、チェ・オンソクと結託した使道が町や村の娘たちを攫っては犯し殺していたのは誰もが知っていたことであり、これで漸くこの地方にも平和が訪れたと町の住民たちは胸を撫で下ろした。
それにしても、使道が婦女暴行殺害だけでなく、偽金作りにまで手を染めていたという事実まで明るみに出て、人々は仰天したものだった。新任の使道が決まるまでは、隣の地方を統べる使道がここら一帯も兼ねて統治することになっている。この老齢の使道については特に悪い噂もないようだし、これからは町の人々も安心して暮らせるだろう。
使道の逮捕はこの小さな木槿村にも大きな波紋を巻き起こした。使道が都に送られたその日、木槿村から一人の農夫もまた忽然と姿を消した。
ソナはふいに湧き上がった涙を手のひらでこすった。終わった恋に涙するなんて、ソナらしくない。
それにしても、自分は何という数奇な星の下に生まれたのだろうか。十七歳で知った初恋の相手は国王さまで、二度目に落ちた恋の相手は暗行御使だった―。
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ