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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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 使道はぞんざいに頷き、空の盃を無造作に突き出した。
「酌をせよ」
 はい、と、娘は殊勝に酒器を保ち使道の盃を満たした。
 と、オンソクが膝をいざり進めた。
「ところで、使道さま。不穏な話が飛び交っております」
 使道が露骨に嫌そうな顔になる。
「何だ、これ以上、気分が悪くなる話はしないでくれ」
 オンソクはまた一旦はしまった手巾を袖から引っ張り出した。
「それどころではありません、実は暗行御使(アメンオサ)が偽金について探っているようなのです」
 そのひと言に、使道の盃を持つ手がかすかに震えた。
「なに、暗行御使だと?」
 オンソクがまるですぐ側に暗行御使がいるかのように怯えた様子で、周囲を窺った。
「そうなのです、二年ほど前、二つ向こうの町に現れたという話はお聞きになりましたか?」
「ああ、その話なら儂も知っている。ひと頃は、随分と民たちの間で話題になったそうだからな。さりながら、あの後、御使は都に帰ったという話ではなかったのか?」
 オンソクはまた流れ落ちる汗を鬱陶しそうに拭いた。
「という話にはなっているようですが、実のところは、突如としていなくなったというのが真相のようで。そのときには都落ちしてきたさる両班の庶子という触れ込みだったそうですが、今、この辺りに潜んでいるとすれば、何の姿に化けているか知れたものではありませんぞ」
「何故、それをもっと早くに知らせんのだっ」
 苛立ちも露わに怒鳴られ、オンソクは流れ落ちる汗をもう拭うことも忘れ、飛び上がった。
「それが―、手下たちは少し前から知っていたようなのですが、子細が判ってから使道さまにはお知らせした方が良かろうと」
「報告を怠っていたというわけか」
 被せるように断じられ、オンソクは親に叱られた悪戯小僧のように蒼褪めた。
「とんでもない! 使道さまに無用のご心配をかけてはならないと思っただけです」
「それで、子細は判ったというのだな?」
「いえ、手下たちを町だけでなく近隣の村々まで走り回らせたのですが、やはり判らずじまいでした。何しろ、暗行御使は身をやつすことにかけては玄人(プロ)ですから」
 と、妙なところで感心しているのを見て、使道は呆れて溜息をついた。
「そなたは頭の回らぬ男だと思っていたが、まさか、ここまでだとは思わなかったぞ」
 言い置き、使道が唸った。今は内輪もめをしている場合ではなかった。その表情が切迫したものになっている。
「暗行御使が動いているとなると、最早、猶予はできん。予定どおり、例のものは裏山の頂上に隠すように」
「はっ、決行は明日の夜という―」
 そこで、使道は片手を上げてオンソクを制した。使道の鋭い視線が傍らで畏まっている下女に注がれた。
「ここはもう良い。下がりなさい。それから、しばらくは誰もここには近づけぬように」
 この若い女も魅力的には違いないが、王の代理人である暗行御使が偽金について探っているとなれば、今は好き心を動かしているときではない。
「はい、畏まりました」
 娘は素直に頷き、室を出ていった。扉が閉まり、脚音が遠ざかるまで待って、使道は口を開いた。
「迂闊に人前で機密を漏らすでない」
 使えないヤツめと、同じ科白を心中で繰り返す。オンソクは細い眼をパチパチとまたたせて使道を見た。若い女、例えば、先刻の眉目麗しい下女ならば、こういう仕種もまた可愛かろうが、良い歳をした中年男がやっても滑稽か不気味なだけだ。
 使道は見たくもないものを無理に見せられたような気がして、余計に面白くない。
「ですが、あの女はただの下女ですぞ、少しくらい何かを喋ったとしても大事には至りますまい」
 オンソクは平然と言っている。
 だから、お前はいつまでも地方でくすぶっていないと駄目なのだ。儂はそなたのような愚かな小者とは違う。
 使道は冷めた眼でオンソクを見ながら、先刻の下女の豊かな腰つきを思い出していた。あの豊満な身体はさぞ抱き心地も良かろう。あの胸の可愛らしい尖りを吸ってやれば、どんなにか愛らしい声で囀るのだろうか。
 だが、と、使道は首を傾げる。問題なのは女の身体ではない。あの可憐な美貌でありながら、男を誘うような蠱惑的な瞳の娘を確かに自分はどこかで見たような気がする―。
 何かが彼の中で引っかかっていた。

 室の扉を閉め、数歩あるいたところで、ソナは立ち止まった。心を落ち着かせるために手のひらを左胸に添える。思わず大きな息を吐き出していた。吐き出された息と一緒に身体中に漲っていた緊張が緩んでゆく。
 あの使道が見かけによらず切れ者だという噂はどうやら真実なようである。現に、スウォルに化けたソナの面立ちを新入りの下女の中にいち早く見抜いてしまった。その上、チェ・オンソクが不用心にも女中に化けたソナの前で偽金を動かす日時を洩らしたときにも、すぐに目顔でオンソクを制し話を止めさせた。
 だが、情報は既に十分なほど得た。偽金を動かすのは明日の晩、更に場所は木槿村の背後の山。これだけ聞き出せば、上等だろう。必要なものを得たからには、ここに長居は無用だ。
 今すぐにでも逃げ出したい想いではあったけれど、話を聞いたその脚で姿を消すというのも妙に思われる危険があった。ここはひとまず与えられた室に戻り、更に夜が更けてから夜陰に紛れて逃げ出すのが良い。そのときこそ、寸刻も躊躇わず屋敷を出るのだ。
 あの様子では、使道がスウォルとソナが同一人物だと気付くのも時間の問題かもしれない。実際、下女に化けて使道たちの前に出ている最中も、ソナは気が気ではなかった。
 酌を命じられた時、使道が
―どこかで見たような気がする。
 と、ソナを探るような眼で見たときは背中に刃を当てられた心地だった。
 あのときにスウォルだと知られていたら、既に生命はなかったに違いない。使道が思い出さなかったのは幸いといえた。
 耳を澄ましてみても、少し離れた室から話し声は一切聞こえない。恐らく新入りの下女をはばかって、脚音が消えるまでは話を控えているのだろう。使道は明らかにソナの素性に疑念を抱いている。
 ソナはひたひたと押し寄せる不安を無理に抑え込み、縁廊をすべるように歩いていった。
 新入りのソナに与えられたのは納戸として使っていた狭い室だった。粗末な夜具を敷けば一杯になるが、今は到底、眠っているどころではない。ソナは室に戻り、布団の上に膝を抱えて座った。
 刻が経つのが今ほど遅く感じられたことはない。使道がどうかスウォルだと気付きませんようにと祈るような気持ちで時間をやり過ごした。
 いかほど過ぎたのであろうか。廊下にひそやかな脚音がして、年配の女中の声が聞こえた。
「スングム、スングムはいるかえ」
「はい」
 ソナは返事をして、扉を内側から開けた。見れば、この屋敷で女中頭を務める四十半ばほどの女が顔を覗かせた。
「何かご用でしょうか?」
 ちなみに、ここの若い女中が婚礼で数日休みを取っているというのは本当だ。ソンスがどこから手を回したものか、ソナはその代わりとして臨時雇いで入ったのである。
 女中頭は執事の妻で、使用人たちの中では上の立場であった。今はスングムと名乗っているソナに、彼女は陰気な顔で告げた。
「使道さまがお呼びだよ」