無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
短い沈黙が流れ、ソンスが烈しい瞳でソナを食い入るように見つめた。
「むろん、それもある。だが、本当の理由はそれだけじゃない」
ソナの黒い瞳に、男の苦悩に満ちた顔が映じていた。ソナは小首を傾げ、ソンスを見た。
「その理由を知りたいか?」
なおも沈黙を守るソナに、ソンスは何かを耐えるような眼で彼女を見つめた。
「知れば、お前は俺を軽蔑するだろう」
ソナは子どもをあやすように優しく言った。
「私はあなたを軽蔑したりなんかしないわ」
ソンスが苦渋に満ちた表情で言った。
「俺の心が醜い嫉妬だけで覆われているとしてもか?」
彼はうつむき、烈しく首を振った。
「俺がお前を行かせたくないのは、お前の身に危険が迫っているからだけじゃない。俺は、俺は―、ソナがまた使道の薄汚い手で穢されるかもしれないと」
皆まで言わず、ソンスは絶句した。そこで、ソナはやっと得心がいった。彼女は微笑み、手を伸ばしてソンスのうっすらと汗で湿った髪を撫でる。
「大丈夫、私は大丈夫だから」
ソンスが燃える瞳でソナを射竦めた。
「どうして、そんなことが言える? あの男は狂っている。今までどれだけの娘が使道の好色の餌食になって殺されたと思ってるんだ! それじゃなくても、お前は男の心を惹きつける。使道がまたお前に眼を付けて、今度こそ取り返しのつかないことになったらと思うと、俺は気が狂いそうだ。幾らお前が抵抗したって、大の男には力では敵わない」
その瞬間、ソナはソンスの心を正しく理解した。ソナはソンスの額に自らの額をコツンとぶつけた。
「私は永遠にソンスだけのものよ。もし、万が一にだけど、使道に穢されそうになったら、そのときは自分で生命を絶つわ。ソンスを裏切ったりしはしないから、心配しないで」
「馬鹿! 自分で自分の生命を粗末になんかするんじゃない。ソナに何が起きようと、ソナの心が変わらない限り、俺の心は変わらない。だから、絶対に死ぬなんて言うな、俺の側からいなくなるなんて言わないでくれ」
頼むから、と、懇願にも似た男の小さな囁きが聞こえた。
「俺はソナが側にいてくれるだけで良いんだ」
それはソンスが初めて見せた弱さだった。ソナは男の弱さを束の間見たことで、余計にソンスへの愛しさが増した。
「約束して欲しい、たとえ何が起ころうと生命を粗末にせず、俺の腕の中に戻ってくると」
「もちろんよ」
焔を宿した瞳が見つめ合う。ふいに下から強く突き上げられ、小さく呻いたソナの白い身体が仰け反った。
「ソナ、愛してる。俺にはお前だけだ」
「ソンス―」
貪るような口づけが解かれた後、二人はまた果てしなく続く激情のただ中へと身を投じていった。切なく長い夜が明けるのを怖れるかのように惜しむかのように、二人は狂おしく身体を重ねた。ソンスは幾度もソナを抱き、ソナは彼に導かれて絶頂へと上り詰めたのだった。
翌日の夜、使道オ・ピルサムの屋敷の奥まった一角でひそかな密談が交わされていた。ここは使道が重要な客と会談するときのためのものだ。屋敷でも最奥部に位置し、家族でさえ滅多に脚を踏み入れない。
室そのものはさほど広くはなく、装飾もない落ち着いた内装である。黄金色の座椅子の背後に漢籍の一文を流麗な手蹟で書いた屏風があり、座椅子に座る使道の前には小机が配置されていた。
「使道さま(サットナーリ)、どうも私は気になってならんのですよ」
文机を間に下座に座った小柄な男は袖から手巾を取り出し、額の汗を忙しなく拭いた。こちらは使道の腰巾着チェ・オンソクだ。
「あのスウォルという妓生の身許はまだ判らんのか?」
使道が苛立たしげに呟いた。オンソクがおろおろと応える。
「まるでそれこそ霧か霞のように消え果てたという次第で」
使道が舌打ちをきかせ、苦虫を噛みつぶしたような表情になる。
「使えんヤツだ」
オンソクがまた額の汗をぬぐった。
「もう少し人出を増やして聞き込みをしてみましょう」
と、使道が首を振った。
「いや、そっちはもう良い。今更、あの妓生が何者かを暴き立てたところで、たいした益もなかろう。それよりまず、優先させるべきは偽金の移し先だ。スウォルが何かを探っていたことは確かだが、幸いにもあの夜、金蔵を突き止められた形跡はない。かといって、このまま邸内に置いておくのもまずかろう。どこか適当な場所は見当がついたのか?」
話が別に逸れ、オンソクは明らかに安堵したような顔になった。
「はい。それについては私めに名案がございます。裏山に埋めるというのはいかがでしょう」
「裏山、木槿村の背後にある、あの薄気味悪い山か?」
木槿村は小高い山の麓にあり、丁度、その山に抱(いだ)かれているような場所にある。標高はないのだが、鬱蒼と木々が生い茂り昼間でさえなお夜のように暗いことから、気味悪がって村人でさえ誰も入ろうとはしない。
そのただでさえ薄気味の悪い山に半年くらい前から若い女の幽霊が出ると不穏な噂が立つようになった。何でも白いチマチョゴリを血だらけにした美しい娘だという話である。村人はひそかに悪名高い鬼に攫われ陵辱された挙げ句に殺された娘の霊だと噂し合った。
大体、攫われるのは町の娘が大半だったが、たまには近隣の村からも被害が出て、実際にこの裏山の中で犯された娘の亡骸が出てきたことも一、二度はあったのだ。特に最近は町の娘を攫うのも目立ちすぎるようになったため、魔の手は周辺の村々にまで及んでいた。ソンスが使道の悪行をこれ以上野放しにできないとソナに告げた背景に、このような理由もあった。
オンソクは額から流れ落ちる汗を拭きつつ、言った。
「幸か不幸か、裏山には殺された女の幽霊が出るという噂がありますもので、逆にそれを利用すればよろしいかと。あの山は昔から地元の村人も怖がって、ろくに近づきたがらないのです。ゆえに、あの山の頂の木々深くに隠してしまえば、偽金の方もしばらくは安心できると存じますが」
フムと、使道は鼻下の髭をひと撫でした。
「そなたはその曰く付きの山に登ったことはあるのか?」
オンソクはヒッと小さな声を上げた。
「それは一度くらいはございます。まあ、どういうわけか野生の獣でさえ住み着かず、真っ昼間でも闇夜のように薄暗くて足許が覚束無い有様です。時折、烏の鳴き声だけがギャーギャーと煩くて、冗談ではなく骸が転がっていそうな雰囲気でして」
思い出すのも怖ろしいといわんばかりに身を震わせる。額を流れる汗が更に増した。
「骸が転がっているというのは、それは嫌みか、当てつけか?」
使道の渋面を見、オンソクは蒼くなった。
「いいえ、違います。さりながら、使道さま、ここらで一度、死んでいった娘たちの供養でもしてやらないことには、あの者たちも浮かばれませんでしょう」
自分が攫ってこさせて貢ぎ物よろしく使道に送りつけてきた娘たちのことを言っているのだ。自身が行った悪行で死んでいった哀れな娘たちの魂を今更供養したところで、何ほどのことがあるというのか。
どこまでも愚かで小心な男であることか。だからこそ、いつまでも無官のまま、こんな地方暮らしに甘んじ家門は衰退するばかりなのだ。
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ