無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
「もしかして、旦那さまなんて呼ぶのが馴れ馴れしかったかしら」
所詮、結婚を約束したとはいえ、自分たちは一夜を共にしただけの間柄である。なのに、早々と女房気取りになったと不快に思われてしまったのだろうか? ソナが不安げにソンスを見つめていると、彼の顔がくしゃっと歪んだ。
それは込み上げてくる感情と必死に闘っているようにも見える。
「違う、怒ったりなんかしてない。何て言うか、その―良いもんだなと思って」
ソンスは照れたように笑った。そんな風に邪気のない笑みを浮かべると、いつもの分別臭さは消えて、歳相応の若者らしい顔になる。
「当たり前だけど、俺はずっと独身だったからね。妻に?旦那さま?なんて呼ばれるのは初めてなんだよ」
なるほど、そういうことかと、ソナもホッとする。ソンスが恥ずかしげに言った。
「なあ、いっそのこと、?あなた?と呼んでみてくれないか?」
ソナが眼を丸くする。
「あなた(ヨボ)?」
ソンスが大きく頷く。
「そうそう」
ソナは微笑み、それから少しの躊躇いと恥じらいを見せてから、ひと息に言った。
「―あなた」
ソンスが笑顔で両手をひろげ、ソナはその腕に飛び込んだ。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま」
ソンスの温かな深い声が頭上から降ってきて、ソナは泣きそうになった。こうして再び誰かを、愛する男を待つ時間を持てることが夢のように幸せに思える。
ソンスもまた同じことを考えていたようだった。
「帰ってくる場所、待ってくれる人がいるというのは良いもんだ。そんな当たり前の幸せを生まれて初めて知った。早く所帯を持ってソナと一緒に暮らしたい」
薄紅色の木槿が涼やかな夕風にかすかに揺れている。ソンスとソナは互いに微笑み合い、家の中へと入った。
結局、鶏は無事で、その日の食卓に上ることはなかった。ソンスが町の鶏肉屋で鶏肉を手土産として買い求めてきていたからだ。
ソナが出した安酒をソンスは豪快に飲んだ。二人の間の小卓にはソナの心尽くしの料理が並んでいる。その中にはもちろん、ソンスが買い求めてきた鶏肉が蒸し鶏となって載っていた。
ソンスが笑いながら言った。
「ソナの大切な家族をみすみす見殺しせずに良かったよ。俺が帰ってくるのがもう少し遅かったら、哀れな同朋は今頃、あの世送りになっていたな」
ソナもまた小さく笑い、小皿にキムチ味のもやしと蒸し鶏を盛りつけた。箸でそれをひと口つまみ、ソンスの手にした飯碗に乗せてやる。
ソンスがからかうような視線を向けてきた。
「何だ、食べさせてくれないのか?」
そのひと言にからかわれているのだと知りつつ、ソナはつい紅くなって反応してしまう。
「冗談でしょ、一人で食べて下さい」
初(うぶ)なソナの反応に、ソンスが小さく含み笑う。
「先ほどから、ソナは少しも食べてない。お前も食べろよ」
「そうね」
これには素直に頷き、ソナは自分も飯碗に蒸し鶏を載せ口に運んだ。次はもやしを取ろうとしてその時、ソンスも手を伸ばして丁度、二人の指先が触れ合うことになった。ほんの一箇所、指先と指先が触れ合っただけなのに、その場所から蒼白い火花が散ったような―気がした。
ソナはハッとして手を引っこめ、ソンスの顔にも驚愕と動揺がありありと浮かんでいた。
ソンスが僅かに掠れた声で言った。視線はどこか別方向をさまよい、ソナを見ていない。滅多に感情の揺れを見せない彼には珍しいことだ。
「いよいよ明日の朝だな」
ソナもまた内心の動揺を必死で押し殺し、平静を装った。
「ええ、いよいよ明日だわ」
明朝、ソナは再び使道の屋敷に潜入することになっている。それは二人で話し合い、決めたことだ。当初、ソナの思惑どおり、ソンスはソナが偽金事件にこれ以上関与することに反対した。
―ソナをこれ以上、危険に巻き込むことはできない。
頑なに拒み続けるソンスに、ソナは
―私もこの国の民だから、この国を愛する民の一人として心から国を憂える者として、使道のような悪逆非道を働く官吏は許せないの。
と、根気よく説得した。ついには
―これ以上は無理だと思ったときには、すぐに引き返すこと。
約束を交わすことで、何とか彼を説得するまでこぎ着けたのだ。
使道の屋敷に潜入してから、既に八日が経過している。最初はソンスが裏から手を回し、チェ・オンソクが贔屓にしている妓房の女将の知り合いのそのまた知り合い―という触れ込みで、屋敷に妓生として入り込んだのだ。
あの妓生スウォルは好色な使道をさんざん翻弄した挙げ句、眠り薬の入った酒をしこたま飲ませ、泥酔したところで霞みのごとく消え果てたことになっている。更に、その後、使道がスゥォルの身許を怪しんで手下に調べさせたことまで判っていた。
当然ながら、スウォルなどという妓生はどこの妓房にもいるはずもなく、スウォルがいたというはずの妓楼すらなかった。そのことで、使道が警戒心を強めるのは判りきっていた。使道の屋敷の金蔵には偽金が眠っている。その偽金こそが、彼の悪行と不正を暴く重要な証拠なのだ。
何者かが素性の知れぬ妓生に変装してまで屋敷に潜入してきた―、その事実が使道を動揺させていることは明らかだ。ソンスが極秘裏に調べたところ、まだ偽金が動かされた形跡はない。だが、いずれ近い中に使道が証拠を別の場所に動かすことは明白だ。
その前に、証拠である偽金をこちらが抑えなくてはならない。そのため、ソナは再び使道の屋敷に潜入するのだ。とはいえ、子どもの遊びではあるまいし、二度も同じ手は使えない。ソナは今度は妓生ではなく、臨時の女中として雇い入れられることになっていた。
しばしの別れが目前に迫っている。そのことを意識したためか、その場の雰囲気が妙に重くなってしまった。しかも、どちらとも口には出さないけれど、ソナが無事に戻れるという確証はどこにもない。
「必ず無事で俺のところに戻ってくるんだぞ」
ソンスが漸く絞り出した声はかすかなものだった。ソナは愛しい男の声音を逃さず聞き取り、しっかりと彼の眼を見つめて頷いた。
二人の視線が絡み合い、またそこから蒼白い火花が生まれた。
「一度だけ、抱かせてくれ」
ソンスの声がうっすらと熱を帯びている。
「お前が使道の屋敷に行く前に、一度だけソナの温もりを感じたい」
その言葉が終わらない中に、ソンスは小卓をのけ、ソナを彼に似合わない性急さでその場に押し倒していた。
「本音を言えば、俺はお前を行かせたくない」
ソンスの膝に跨ったソナに、彼は言った。二人は互いの衣服を性急に脱がし合い、素肌で抱き合った。ソンスは何ものかに憑かれたように追い立てられるかのように、ソナを烈しく求めた。それは烈しいながらも、昨夜のソナを労りながら優しく抱いた彼とは別の男のような愛撫でもあった。
だが、ソナは理解していた。ソンスはソナを使道の屋敷に送り込むについて、まだ迷っている。
今、二人は一糸纏わぬ裸で、ソナはソンスと向き合って対面座位の形で抱き合っていた。
「その理由をお前は知っているか?」
唐突に訊ねられ、ソナはかぶりを振る。
「私を危険に巻き込みたくないからではないの?」
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ