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無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】

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彼の大きな手で引き寄せられ、ソナは最初は少し抗った。だが、温かな手で宥めるように労るように背中を撫でられ、直に大人しく彼の腕の中におさまった。
「この間のことは本当に済まなかったと思ってるよ。あれは明らかに俺の失言だった。だが、少し言い訳させて貰うなら、ソナが使道の薄汚い手で身体中を撫で回されているのを見てる中に逆上してしまったんだ。こんなことは男として死んでも言いたくない科白だが、どうも嫉妬してしまったみたいだ」
 ソナが弾かれたように面を上げた。
「ソンスが嫉妬を?」
 温かな笑顔が頷く。
「ああ、ソナに指一本でも触れて良いのは俺だけだと、根拠のない独占欲に走ってしまって、つい言ってはならないことを口走ってしまったと思う。その結果、ソナを侮辱するような言葉を吐いた。このとおり謝るから、できれば、あの失言は忘れくれ」
 男がここまで言葉に出して謝罪してくれるなど、そうそうあるものではない。ソナはソンスにこれ以上言わせてはならないと悟った。
「もう良いの。私もあなたもあの夜の前後は気が立っていて、普通ではなかったと思うし。売り言葉に買い言葉で、私も少し苛々として言い過ぎたと反省してるから。お互いに忘れましょう」
 更に、ソナは続けた。ソンスを愛するからこそ、言っておかねばならない科白だと思った。
「でも、私が魔性の女だとかつて呼ばれたことは事実なのよ。それでも、あなたは気にしない?」
 ソンスはしばらく空を見つめて考えているようだったが、やがて視線をソナに戻した。ソナはハッとした。彼の瞳は愕くほど、凪いでいた。そこにあるのはハンの瞳に閃いていた孤独ではなく、今、二人の頭上にひろがるような冴え渡った空だった。
 そして、ソナは気付いていなかった。ソンスは、遂行しなければならないその過酷な極秘任務ゆえに、長らく孤独に囚われていた。ソナは彼が背負い続けてきた孤独から、彼を解き放ったのだ。
「ソナ、俺はそのことについて考えたんだが」
 前置きして、ソンスはゆっくりと語った。彼がよほど考えて言葉を選んでいるであろうことはよく判った。
「古来、妖婦の色香に血迷って我が身ばかりか国を滅ぼした帝王は多い。ソナの言う魔性の女というのは、そういう妖婦であり、国を傾ける―傾国の美女のことを言うんだろうな。だが、ソナ、それは女ばかりが悪いわけじゃないと俺は思うんだ。男の方も女の色香に負けてしまった、そういう弱さがあったはずだよ。俺は幸いなことに王でも皇帝でもないが、国を心底から思うこの国の民として、国の将来のために力を尽くしたいと思っている。けれど、それと女への色恋は別ものだ。安心してくれ、俺はソナが魔性の女だなどとは思わないが、仮にそうであったとしても、お前の色香に負けるだけの弱い男では終わらないつもりだ」
 ソナの瞳が揺れた。ソンスはソナと眼線を合わせ、しっかりと頷いた。
「もしソナが男を喰らい尽くす星の下に生まれたというなら、俺がソナのその運命を変えてやるから、安心しろ。お前の運命ごと引き受けて愛して、きっとお前と添い遂げてみせる」
 これ以上の真心を示してくれる男がいるだろうか。ソナはもう、涙が止まらない。
 ソンスが袖から桃色の巾着を取り出した。
「おいおい、この程度で泣いてちゃ駄目だぞ」
 その言葉と共に差し出されたのは。
 ソンスが巾着からゆっくりと取り出したそれを見て、ソナは息を呑んだ。
「森の奥にひっそりと眠る湖みたい」
 無骨な手のひらに乗っているのは、小振りの簪であった。雫型の石は鮮やかな緑色で、ソナが咄嗟に想像したのは深い森の奥に満々と水を湛える清らかな泉であった。
「店主の話だと緑玉(エメラルド)だそうだ。俺も二十四年も生きてきて、女に宝石にせよ装飾品にせよ贈るのなんて初めてなもんで、よく判らなかったんだけどさ。良かったら、貰ってくれ」
 ソンスの手から渡された銀の簪をソナはそっと自ら髷に挿した。
「どう?」
 垂れ下がった小さな石はソナが動く度にゆらゆらと揺れ、それこそ森の奥で澄んだ湖の水面がきらきらと煌めくようだ。ソンスはそんなソナを眼を細めて見つめた。
「改めて言うよ。使道の一件が片付いたら、俺の嫁さんになってくれ」
 ソンスは弱り切ったように頭をかいた。
「参ったなぁ、こういうときにもっと気の利いた科白を言えば良いんだろうが、何も思い浮かばんな。俺にはあの詩をひねり出すので、精一杯だ」
 苦笑するソンス。こんな不器用な優しさを見ると、ハンを思い出す。かつての恋人もどちらかといえば、愛の表現をするには不器用な方だった。どちらとも優しい。だが、決定的に二人の男が違うのは、愛し方だった。
 どこまでも穏やかに愛してくれたハンだったけれど、結局、二人の愛は終わりへとひた走っていったのだ。ソンスの愛は強い。いや、二人の男はどちらも全身でソナを愛し求めてくれた。愛の強さが違うのではなく、ソンスの愛し方が強いのだ。
 ソナが妖婦であったとしても、愛の力でソナの不幸な運命さえも変えてみせると宣言したソンス。その強さはどこから来るのだろうか。
 ソンスの期待に見た眼がソナを見つめている。ソナはソンスの漆黒の瞳を見つめ返しながら、一語一語はっきりと言った。
「末永くよろしくお願いします」
 ソンスの顔がパッと歓びに輝いた。
「そうか! そう来なくっちゃな」
 ソナは澄まして言った。
「酷いことを言っても、許してあげる」
 そう言ってクスリと笑みを零すと、ソンスが眼を丸くする。
「何だ、こいつ。今泣いた烏がもう笑うのか」
 こいつめ、と、ソンスがソナの額を人差し指でつついた。
 ソナとソンスの視線が混じり合い、そこから何とも温かなものが生まれてゆく。
 二人は木槿村までの長い道を並んでゆっくりと歩いた。ソナの家の手前まで歩いてくると、狭い庭を埋め尽くす木槿の花が見えた。柴で拵えた簡素な囲いの途中に開き戸が取り付けてある。ソナは先にその戸を押して入り、ソンスを招じ入れた。
 庭には数本の木槿があり、今を盛りとピンク色の花が咲いている。大振りの華やかな花だ。木槿村の名で知られるように、この村は大抵どこの家にも木槿がある。ここは元々、空き家だったのを村長から格安で借りた。
「あの」
「おい」
 二人がほぼ同時に声を発したのは粗末な仕舞屋の縁に並んで腰掛けたときだった。
「あ、ソンスからどうぞ」
 ソナが言うのに、ソンスもいつになく大人しい。
「いや、お前から」
 そこで二人は吹き出した。
「これからもよろしく」
 ソンスが大真面目に言うのに、ソナはまた笑った。
「何だ、人が真面目に挨拶してるのに」
 ソナは笑いを堪えて自分も真面目に言った。
「こちらこそよろしくお願いします」
 ソンスの手が躊躇いがちにソナの手に重ね合わされた。
「やっぱり、お前は泣いているより笑ってる方が良い。ソナ、お前が泣けば、俺はいつでもお前の涙を拭ってやるけど、できれば、いつまでもそうやって笑っていてくれた方が良い」
 二人はそうやって寄り添って、いつまでも木槿の花を見ていた。辺りの景色が黄昏刻になり、やがて夕闇に包み込まれ、更に宵闇の底に沈み込むようになっても、まだ、その場所にいた。