無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
トクチョルに告げた言葉は偽りではない。こんなに良い縁談や良い男をすげなくはねつけたのだから、相応の報いは受けることになるだろう。
トクチョルは最後まで良識ある男に徹した。考え様によっては、いつもソナの刺繍を買い上げてくれる雇い主でもあるわけだから、それを逆手に取るか恩に着せて強引にソナに結婚を承知させることもできたはずだ。なのに、トクチョルは仕事の話は一切持ちださなかったし、ソナを脅すようなこともしなかった。どこまでも男気のあるところを見せたのだ。
トクチョルがチョ商団の新しい頭首となれば、商団はますます栄えるに違いない。今の頭首チョ・マンギは利のためには悪辣なことも平然と行うというが、トクチョルなら利よりも情を重んずるような気がする。結局、金儲けといえども、大切なのは人の心ではないかとソナは思うのだった。
何故なら、金を動かすのも人だからだ。情けを忘れて利だけを求める商売には限界がある。トクチョルはやり手と称される父親ほどの器ではないと陰で言う人も多い。だが、恐らく商団はトクチョルの代になれば、更に大きく飛躍するのは間違いない。
それほどの男の求婚を断った理由は一つしかない。トクチョルには人間としての魅力を感じても、男として魅力は感じないから。そして、長らく闇に閉ざされたソナの氷のような心に小さな灯りを灯したのはトクチョルではなく、ソンスだった。
かつてハンの心を得たい、独り占めにしたいと一途なまでに希(こいねが)ったのと同じような熱い気持ちが今、ソナを支配していた。けれど、恐らく、この二度目の恋は実ることはないだろう。ソンスは三日前、はっきりと言ったのだ。ソナを?魔性の女?、と。
魔性の女は男に取りつき、その精魂を吸い尽くして死に至らしめる怖ろしい魔物だ。そんな女を好む男がどこにいるだろう? 恐らくハンだって、ソナがそんな女だと知っていたら、側には近づけなかったに違いない。
トクチョルは表通りまでソナを見送ってくれた。大通りの向かい側から、こちらを窺っている男がいるとは想像だにしていない。
ソナは丁重に頭を下げ、絹店に背を向けて通りを歩き出した。ソナが歩き出したのと同じくして、その男も彼女の後をついて歩き始めた。
「ちょっと歩かないか」
唐突に背後から声が追いかけてきて、ソナはピクリと身を震わせ立ち止まった。この声は―。恐る恐る振り向くと、眼前には逢いたくて堪らなかった男がいた。
二人はしばらく黙って歩いた。今日も目抜き通りは人が多い。客を呼び込む店主の声が飛び交い、人々はめぼしい品を売る店に群がっている。
二人を包み込む沈黙に押し潰されそうになり、ソナはありったけの勇気をかき集めて口を開いた。
「この間のこと、まだ怒ってるの?」
「いや」
ソンスはぶっきらぼうに言い、俄に悄然としたソナを見て滑稽なほど狼狽えた。ただし、うつむいて涙を堪えているソナには男の動揺は判っていない。
ソンスは小さく咳払いし、矢継ぎ早に言った。
「その―、この間は済まなかった。怒鳴ったりして」
更に言ってから、頭をかいた。
「いや、そうじゃない。違う」
ソンスは袖から縦長の封筒を取り出し、紙切れを後生大切そうに開いた。それをひろげて読み上げる。
「そなたの瞳は漆黒の夜空を飾る無数の星の輝きよりもなお眩(まばゆ)く、そなたの唇は春に開く薄紅のどのような可憐な花よりも麗しい。その瞳に見つめられると、私の心は金剛山(クムガンサン)を吹き渡る風のように烈しく揺れるのだ。ああ、愛しい女(ひと)よ、その麗しき瞳で私だけを見つめ、その愛らしき唇で私だけの名を呼んでくれ。私の心は今や鴨緑江(アンノツカン)の水よりも多く、溢れんばかりに君への想いで満ちている。どうか、君がこれから先、名を呼ぶことになるただ一人の幸運な男に俺、いや、私をすると約束して欲しい」
滔々と述べ立てたソンスは紙片を丁寧に折りたたみ、期待に満ちた眼でソナを見た。
ソナは唖然としてソンスを見返した。どうやら、ソンスが作った求愛の詩らしい。何故、一介の農夫がこんな難しい詩を作るのか?
その時、ソナが冷静であれば十分におかしいと思えたはずだ。しかし、そのときのソナは愕きと歓びで、そんな余裕はなかった。
いや、その想いから敢えて眼を背けたことに、ソナ自身すら気付いていなかった。彼の正体を詮索し知ってしまえば、ソナの見込みのない恋の終わりは余計に早まるだけだから。
「どうだ? これでも一晩眠らずに考えたんだ。初めて女人に贈る詩にしては、上出来だと思わないか?」
と、ソナが急に吹き出した。
ソンスにはその反応は意外であったらしい。陽に灼けた整った顔が忽ち強ばった。
「何だ、人が折角眠る時間も削って作ったというのに、これのどこがおかしいのか?」
ソナはうつむいた。ともすれば、涙が溢れそうだったからだ。
「違うのよ。あなたが私のために一晩中、考えてくれたというのが嬉しくて」
立ち止まったソナの手を引き、ソンスは通行人の邪魔にならないように脇に避けた。改めてソナと向き合い、その顔を覗き込む。
「その言葉に、俺は少しは期待を持っても良いのか?」
その瞬間、ソナがかすかに頷いたのをソンスは確かに見た。ソンスの顔が歓びと期待に輝いた。
ソナは涙をまたたきで乾かし、ソンスを見上げた。
「とっても嬉しい、ありがとう」
でも、と、ここでソナはまた下を向いた。ソンスが首を傾げる。
「この詩を歓んでくれたなら、何故、そんな哀しそうな表情をするんだ?」
「私は魔性の女よ」
そのひと言に、ソンスの顔がまた強ばった。ソナは哀しい想いで、ソンスの顔を見つめる。
「他でもないあなた自身がそう言ったのよ、ソンス。私が使道の屋敷で妓生を演じた時、その演技が偽物とは思えないとも言ったわ」
「それは―」
言いかけたソンスに、ソナは覆い被せるようにひと息に言った。
「私は誓って妓生ではないわ。過去に妓房にいたこともないの。ただ、あなたが言うように、自分が魔性の女であるかどうかという点については、弁明はしないし、できないと思ってる」
ソナは小さく首を振った。
「私の最初の恋人が私のせいで死んだというのは嘘ではないのよ。もちろん、私が殺したわけじゃない。でも、私のひと言で、彼が無理をしようとして、それが原因で死んだのは確かな事実なの。今でも後悔しても後悔しきれない。何故、彼にあんなことを頼んだのかって。そして、周囲の人はそんな私を魔性の女と後ろ指を指したわ」
私が、彼を―ハンを殺した。ソナの心は張り裂け、血の涙を流していた。
「判ったでしょ。私はそんな怖ろしい女。私を愛せば、きっといつか、あなたも破滅させてしまうかもしれない。私はもう二度と、そんな哀しい想いはしたくない」
ソナは涙を湛えた瞳でソンスを見つめた。
「私もあなたを好きだから。愛してしまったから」
ソナの瞳から堪え切れなかった涙がひと雫溢れ、つうーっと糸を引いて流れ落ちた。
「もう二度と、愛する男を私のせいで死なせたくない、不幸にしたくないの」
ソンスが近寄った。
「ごめん。俺が悪かった、まず謝るべきなのは、このことだったんだな」
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ