無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】
二人は顔を見合わせ、このときはしっかりと頷き合った。
「俺が入るから、お前は誰か来ないか見張っていてくれ。気配を感じたら、すぐに知らせるんだ」
「はい」
短いやりとりの後、ソンスは慣れた身のこなしで蔵に侵入した。蔵には高い部分に明かり取りの窓があるだけで、もちろん出入りする扉は頑丈に施錠されている。ソンスは壁を猿のようにするするとよじ登り、小さな窓に取りついた鉄枠を懐から出した鋭い短刀を使って一瞬で外した。
更に猫のようにそのわずかな隙間から入り込んで蔵の中に消えた。
時間の経つのがソナには随分と長く感じられた。もし、このまソンスが出てこなかったら? そう考えただけで、気が狂いそうだった。その時、ふと胸の中に落ちてきた想いを彼女は認めざるを得なかった。
―私はもしかして、ソンスを好きになった?
最初はその淋しげな瞳が初恋の男ハンに似ているからだと思った。どことなくハンを思い出させるその姿にかつてのハンへの恋心を重ねているだけなのだと。
だが。本当にそうなのだろうか。その応えは再び姿を見せたソンスをひとめ見た瞬間、自ずと明らかになった。
じりじりと時間は永遠にも続くように思われた。ソナが不安と沈黙に押し潰されそうになった時、ソンスの顔が小窓から覗いた。
「お前の言ったとおりだ。こっちの蔵は偽金で一杯だ」
ソンスは入ったときと同じように器用に蔵から出てきた。もちろん、小窓の鉄枠は元通りにしておいた。ストンと地面に音もなく華麗に降り立ったソンスに、ソナは駆け寄った。
「これで大丈夫だ。スウォルという怪しい妓生の存在はごまかしようもないが、まさか金蔵まで調べられたとは使道は気付かないはずだ」
ホッとしたように言うソンスに、ソナは夢中で言い募った。
「遅かったのね、心配したのよ。もう戻ってこないんじゃないかと思って」
ソンスが息を呑んだ。
「ソナ、お前―、泣いてるのか?」
「馬鹿、馬鹿、心配させて」
民を救うために身の危険を承知で働いているソンスにこんな時、言うべき言葉ではないことは判っていた。けれど、ソナはどうしても言わずにはいられなかった。それほど彼の身を案じていたのだ。
「私のせいなの、私が彼を殺したの」
―いつかそなたが私の息子を生んだその日に、朝鮮中の百合の花を贈るよ、最愛の妻と息子に。
ハンはそう約束してくれた。そして、視察旅行の途中で見かけた百合の花を摘もうとして、崖から落ちて死んだ。
あの時、私が、私さえ百合の花を欲しいなんて言わなければ、彼があんな風に生命を落とすことはなかった。民想いの優しいあの男は聖君と呼ばれる偉大な王になっただろう。
あの男(ひと)のすべてを生命さえも、私が奪った。人々が忽然と姿を消した王の寵妃をどのように呼んでいるかは都から離れたこんな田舎まで届いている。
―王さまをその色香で夜毎誑かし、その精気を吸い尽くした怖ろしき妖魔。
ソナが妖魔だったからこそ、美少女に化けて王に取りついてその精気を吸い尽くして殺したと人々は噂していた。
その心ない噂はどれだけソナの心を傷つけ、打ちのめしたか。いつしかソナはやはりハンを殺したのは自分だと信じ込み、我と我が身を責めるようになっていた。
ソンスが小さな息を吐いた。
「心配かけて悪かったな。だが、俺はこのとおり無事だから、泣かなくて良い」
その大きな手がやはり躊躇いがちに泣いているソナの背を撫でた。
「もう泣くのは止めろ」
見上げたソナの瞳は涙を湛えていた。ソンスはその泣き濡れた顔にハッと胸をつかれたような表情になった。
「使道をあれだけ色っぽく誘惑してみせた癖に、今度は子どものように泣くのか。おかしなヤツだな」
ソンスは笑いながら、指の先でソナの涙を拭ってくれた。その優しい仕種は嫌が上にもハンを思い出させた。ハンもこうやってよく泣いたソナの涙を拭ってくれた。
―そなたは泣き虫だな。私はそなたが泣くと、どうすれば良いか判らなくなる。ゆえに、泣くのは止めてくれ。
そう言いながら、手巾でソナの涙を拭いてくれた。もっとも、ソンスはハンのように丁寧にいちいち手巾で拭いたりはしてくれそうにない。今だって、手で無造作にぬぐってくれただけだ。けれど、二人の男の心の優しさに変わりはないように思えた。
ソンスが言い聞かせるように言った。
「そろそろ時間だ。誰かに見つからない中に戻ろう」
念のために隣の蔵も覗いたが、こちらはごく普通の金銀財宝―清国渡りの高価そうな壺だとか由緒のある掛け軸だとか、そんなものばかりだった。
二人は再び気配を殺して闇に閉ざされた庭を駆け抜けた。物々しい警備を置いては、かえって人眼に立つと使道が蔵に見張りを立てていなかったことも幸いした。闇夜が味方をしてくれ、二人の姿は深い闇に覆い尽くされ、その夜、使道の屋敷の蔵に闖入者があったことはついに知られずに済んだのである。
翌日の昼下がりになった。ソナとソンスはソナの働き先である酒場で、額を寄せ合っていた。
ソンスが腕組みをして唸った。
「昨夜、俺たちが得た情報の価値は高いぞ。あの使道の蔵にしまい込んである偽金がヤツらの悪行を暴く動かぬ証拠になるはずだ」
ソンスは片隅に陣取り、ソナが小卓を挟んで向かい合う形だ。今日はソンスは酒は注文せず、飯と汁物、青菜のお浸しが膳に並んでいる。
「これもすべてソナのお陰だ、ありがとう」
面と向かって改めて礼を言われ、ソナは頬を染めた。
「なっ、何。あなたからそんな風にきちんとお礼を言われると、調子が狂っちゃうから」
恥ずかしさにプイを横を向くと、ソンスが忍び笑いを洩らしている。
「その意味ありげな笑いは何なの!」
ムキになると、ソンスはまだ低い声で笑いながら言った。
「お前って、本当に素直じゃないのな。昨夜は俺の腕の中で?心配したのよ?って、殊勝に泣いて震えてた癖に」
ソナの顔が熟れた果実のように赤らんだ。
「昨夜、あなたの腕の中でって、そんな誤解されるような言い方は止めてよね。それに、確かに泣きはしたけど、震えてんなんかなかったわよ」
ええ、そうですとも。確かに昨日はいつになくハンを失ったときのことを思い出してしまって、ハンにどことなく似たソンスまで死んでしまったらと考えると、居ても立ってもいられなくなった。
ただ、それだけ。心配だから、涙が出てしまっただけ。間違っても、この眼の前の口の悪い男を好きになったりしたわけじゃないんだから。
ソナは自分にくどいほど言い聞かせ、話を無理に変えた。
「それよりもその証拠を使道たちに気付かれない中に何とかしないと」
ソンスの眼が大きく見開かれた。彼はしばらくソナを無表情に見つめていたかと思うと、ひと言ポツリと言った。
「お前はもう拘わるな」
「何で!?」
ソナは食いつくように彼に訊ねる。ソンスの双眸はどこまでも静謐で、ひと欠片の感情も浮かんではいかなかった。
そう、虚無を宿したこの瞳をやはり私はどこで見たことがある。失った恋人も彼と似た瞳をしていた。
こんな淋しげな瞳をした男を到底一人では行かせられない。もし、彼(ソンス)をここで一人行かせたら、ハンのように二度と生きて帰ってこないかもしれないのに。
作品名:無窮花(ムグンファ)~二度目の恋~【続・相思花】 作家名:東 めぐみ