怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった
13 贈った主が拾う滑稽
オペラ座の
大屋根で
おまえが男と
睦言を
交わしたくらいで
怪人は
腹を立てたり
などしない
聖なるアポロが
見下ろす屋根で
おまえが男と
口づけを
交わしたくらいで
怪人は
目くじらたてる
つもりもない
たかがそれしき
若い2人の
ままごと遊びの
延長と
許容範囲と
心得ている
そうでなければ
おまえを地上に
帰したりなど
するものか
たかがそれしき
屁でもないほど
聞こえた声に
愕然として
目でなく耳を
疑った
本当に
おまえの声かと
疑った
婚約?
結婚?
2人で逃げる?
明日の舞台の
歌を最後に?
別れを言うのは
残酷すぎる?
だから私に
一言もなく?
お心づかい
痛み入る
ありがたすぎて
言葉も出ない
(2)
あの15日
強引すぎた
招待の
詫びをもこめて
おまえには
誠意を尽くした
つもりだった
心の底から
自分のものに
したいと願った
最初で最後の
人だから
敬意をこめて
敬愛の
情をこめて
尽くせるかぎりの
誠意を尽くした
女が寝泊まり
するに足る
設えもし
数日の
逗留を乞い
隙あらば
逃げようともがく
おまえを説き
朝な夕な
泣きじゃくる
おまえをなだめた
その気なら
苦もなかったろうが
力づくで
ねじ伏せるなど
卑劣な真似は
したくなかった
万人が憎む
このケダモノを
徹頭徹尾
名前で呼び
曲がりなりにも
人間として
遇してくれた
たった1人の
人にまで
ケダモノに
なり下がったら
自分で自分が
惨めすぎる
だからこそ
仮面を奪った
おまえを赦し
無傷のおまえを
地上に帰した
男としての
私を望んで
くれない以上
女としての
おまえを得たいと
望むのは
不遜すぎると
諦めた
しがない矜持で
歪んだ誠意を
貫いた
だが待てよ?
如何に歪んで
いようとも
誠意は誠意
せめてこの
誠意に免じて
代償をくれと
言いたくなった
笑えるだろう?
育ちの悪さは
隠せない
そして望んだ
代償が
指輪に託した
あの恫喝
--結婚など許さない--
--永遠に私のもの--
名残惜しい
別れの場面に
本音で言うのも
品がないから
ああ言っただけ
遠慮しなけりゃ
こうだった
--醜い醜い怪人は
これから先も
指1本
触れやしないから
案ずるな
閉じ込めたりも
決してしない
地上と地底と
行き来の自由は
保証してやる
その代わり
おまえも生涯
無垢なまま
地底の私の
弟子であれ
娘であれ
通い妻たれ--
食い入るように
指輪を見ていた
おまえには
私の本音が
判っていたはず
判らない
おぼこじゃないはず
これとて私の
独りよがりか?
あるいは重々
判っちゃいても
地上で自由の
身となれば
指輪など
チャチなおもちゃ?
恫喝ごときは
たわけた寝言?
果たして
おまえは
裏切った
本人が
聞いているとも
つゆ知らず
たった今
この大屋根で
おまえは私に
絶縁状を
突きつけた
若造が言う
逃避行を
唯々諾々と
受け入れるほど
この怪人が
憎いなら
あの15日
どうして私に
笑顔を見せた?
地底には
もう2度と
寄り付かないと
言い切れるほど
この怪人が
憎いなら
仮面も失くした
素顔の私を
なぜいたわった?
どうしてあんなに
無邪気な顔で
素顔の私と
歌が歌えた?
おまえが心を
開いてくれたと
浮かれた私が
馬鹿なのか?
夫と妻には
なれなくても
穏やかに
共に過ごせたらと
夢見た私が
馬鹿なのか?
媚びたのか?
騙したのか?
とにかく
逃げたい一心で?
もしそうなら
大した女優だ
そこまで
虚仮にされるほど
私は非礼を
働いたのか?
仮面の下の
正体じたいが
耐え難い
非礼だったと
言われたら
ひとたまりもない
恥じ入るしかない
だからこそ
恥じ入って
詫びるしかない
醜い生き物だからこそ
振る舞いだけは
悲しませまい
信義にもとる
仕打ちはしまい
その一念で
いたつもりだが
所詮は怪人
誠意など
通じないのだ
代償を
望むなど
身の程知らずも
甚だしいのだ
その証拠に
夕闇近い
この大屋根で
1人
取り残された
アポロの陰で
遠目に光った
鈍い金色
近寄って
それと認めた
小さな輪っか
知らずに落とした
おまえの指輪
私がおまえに
贈った指輪
落とした主が
気づかぬ滑稽
贈った主が
拾う滑稽
怪人が
望んだ代償の
なれの果て
アポロの神まで
笑ってる
作品名:怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった 作家名:懐拳