亡霊居酒屋の一夜〜やおよろず〜
そうなってしまうと俺と息子をつなぐものがなくなってしまった。会話が長続きしなくなった。そうなって少し後悔をしたよ。家族同士なのに、俺と息子は向いている方向が違ったんだ。お互いに何かを共有しようと歩み寄ることが出来なかった。
息子との関係は息子が成長にするにつれギクシャクしていった。会話が途切れて、お互いが黙り込んでしまう。息子は野球チームを辞めたが、テレビで野球の試合をよく見ていた。じっとテレビを見る息子の背中に俺は声をかけられなかった。部屋で歴史の本を読んでいた。あの頃の俺は好きなものが部屋にあるから行っていたのか。それとも息子の無言の背中を見たくなかったのか。どちらなのか。分からないんだ。
子供は大人になった。会社員として働きだしたよ。ただ結婚が出来なくてね。一人暮らしをしながら仕事をしていた。たまに家に帰ってきたようだが、顔を合わせた記憶は薄い。
息子との関係を寂しくないと言えば嘘になる。けれど息子は一人で自活し生きていけていた。それはとてもよいことだと思った。それをちゃんと出来るように育てられたなら、とても喜ばしいと思うべきだ。そう考えると心のつっかえが幾分楽になったような気がした。
やがて息子が結婚して孫が生まれるようになると、俺と妻は息子夫婦と同居をはじめた。俺も仕事を引退して、歴史の研究会に入会したり、古書店へと通うようになっていた。
その日は、集めた本に自分の印鑑を押して整理をしていた。大きな満月がのぼっていた。
珍しく息子が俺の部屋に入ってきたんだ。酒を持ってきて驚いた。そんなこと今まで一度もなかったから。
「歴史の本、面白いか。父さん」
突然の言葉に戸惑いを覚えたが、表には出さずに俺は頷いた。
「あぁ面白いよ。面白いが、どうした」
息子はコップの酒を一口飲むと、何だか優しい目で俺を見たんだ。
「正直、ずっと父さんの趣味が古くさいなと思っていた。あぁいまだに理解が追いつかないけど……今日父さんの入っている研究会の人が家に来てさ」
俺は赤面したよ。研究会の人には話していたんだ。俺が歴史にはまりこんだきっかけをさ。
息子が生まれたとき、俺はすごく不思議な気分になったんだ。自分の血がつながっていくという感覚に打ち震えた。自分の父親や祖父も同じ気持ちだったのだろうかと気になって調べだしたのがはじまりだった。
「俺も子供が産まれたとき、父さんと同じ気持ちになったよ。あぁ似ているなって思った」
息子は俺を一瞬見ると照れ笑いをした。息子の気持ちが伝わってきて、俺は嬉しくなった。こんなに心が近くに感じたことがなかったよ。俺も照れ笑いをした。
戸を開けて満月を二人で見た。とりとめもない話をして、深酒をした。良い晩だった。
息子はそれきり俺の趣味について口を出すことはなかった。だけど、かまわなかった。俺のやることに温かな視線を送ってくれる家族がいる。それが分かっただけで十分だ。幸せだったよ。自分の好きなことを通じて仲間は増えていく。家族はまとまっていく。孫がじぃ、じぃと好いてくれる。それ以上の幸せはないだろう。だけど残念のことがあった。俺はそれを普通だと思っていたことだ。
当たり前という幸せに気づいたのは。俺から記憶が抜け落ちていく最中のことだった。
俺はある日を境に研究会に参加が出来なくなった。道を忘れてしまったのだ。正確に言えば途中で記憶が抜け落ちている。一の次は三で二が抜け落ちたことに気づかなかった。ものを覚えられなくなっていた。妻に頼まれた買い物が出来ない。それも数が少なくてもだ。家にちゃんとあったことを目にしながら、時にはきつく確認しても忘れてしまう。あんまりにもそういうことが重なって自分でも不気味に覚えたが、医者に行かなかった。周りは医者に行くことをすすめたが、俺はガンとして頷かなかった。自分が少し年を取ってしまっただけだと思っていた。老化だ、老化と信じたかった。そう強がる裏には、自分の異常が怖くなって、事実に向き合えない自分がいたんだ。
そうして異常が出てから一年後には、自分の異常にも気づかなくなるまでに「呆け」が進んだ年寄りがいたんだ。
俺は字も書けなくなっていたし、読めなくもなっていた。自分の感情を抑えるということも出来なくなっていたし、夕餉の時間が近づくと怒鳴り声をあげて歩きだした。俺は自分の部屋に入れなくさせられた。本の紙を食べてしまう可能性があるからと、鍵をかけられた。
俺は日がな一日、居間のソファに座っていた。一度立ち上がると家族が座らせるんだ。
おとうさん、どうかそこにいて。いてください。
そう懇願するんだ。
苦しそうな、辛そうな、必死で、怒りを秘めた顔。俺はよく分からないまま気迫に押されて座っていた。でもテレビはつまらないんだ。ゆっくりとした口調の言葉でも意味があまり通らないのに、言葉のスピードが速すぎて意味が分からない。知らないことばかりが画面に表れては消えていく。見ていても何も感じない。よく分からない音が耳を通り過ぎていく世界は「無」そのものだった。そういう世界だと自分の感情や欲求だけが高ぶっていくんだ。
トイレに行きたい。腹が減った。外の空気が吸いたい。俺は行きたい場所、やりたいことをしに立ち上がる。すると妻や息子の嫁が止めるんだ。何度も何度も。
段々腹が立ってくる。何でだと言葉にならない声で俺は吠える。そして手を上げる。乾いた音が響く。
妻と息子の嫁は泣いていた。俺はやっと自由になれたと思って動き出すと、息子が鬼みたいな顔をして立っているんだ。俺の肩をつかんで、怒鳴るんだ。
「やめろ、やめろよ。家族を殴るなんて最低だろ」
「しっかりしろよ。恥ずかしくないのか!」
俺は戸惑った。息子の言っている意味がもう分からなくなっていた。自分のやったことがいいか悪いかの区別なんてつかなかったんだ。ただ大きい男の声が心を竦ませた。動揺した。
息子が、怖くなった。大きい獣とさして変わらぬ存在になり果てた。
息子が息子だと分からなくなり、名前を聞かれても答えられないほどに「呆け」が進んだ時、俺は息子に近寄れなくなっていた。見るだけで怯えてしまった。また怒鳴られるのではと思うと体が震えてしまう。
俺は、俺みたいな老人がいる施設に行くことになった。息子は見送らなかった。どうも施設の職員に「俺がいるとおかしくなる。怖がられるから」と言っていたようだった。息子は自覚していたのだろう。自分の態度。父親の行動を諫めたことは。逆に父親を追いつめたのだと。
無念だったと思う。息子は別に俺を追いつめたくて追いつめた訳じゃない。家族を守りたくて、昔の俺に戻って欲しかった。それだけだったのに。
生きていた頃の俺は、最後まで気づけなかったよ。
本当にどうしてこうなったのだろう。呆けなければ良かったのに。息子や家族に迷惑と罪悪感を持たせてしまった。申し訳ない、申し訳なくてしょうがないんだ。
そう思っているのに、俺は願ってしまうことがある。
身勝手だと分かっているんだ。それで家族を苦しめたのだろうって。俺の変容は罪だと知っているのにな。
どんな俺でも、受け入れて欲しかったと願ってしまうんだ。
客の頬を涙が滑り落ちる。
作品名:亡霊居酒屋の一夜〜やおよろず〜 作家名:佐和島ゆら