亡霊居酒屋の一夜〜やおよろず〜
カーテンの隙間から入る冬の日差しに照らされて、翔太は目を開けた。
布団の表面が冷えきっていた。喉がからからで声が出せなくなっていた。翔太は寒さを気にせず、台所に行き水道水を飲んだ。冷えた水はするりと喉に落ち、渇きは癒された。
翔太は一人暮らしだ。高校に入学したときから一人暮らしを始め、一年半が経とうとしている。翔太は朝食をとった。食パン二枚に市販の野菜ジュース、チョコレートがひとかけら。食事は五分で終わった。
翔太は偏食家ではないし、料理の仕方はバイト先の店主に多少は教えられていた。それでも料理を作らなかった。
自分が好きな味を知らなかったのだ。食べたい味もなかった。「うちのカレーが恋しい」という言葉を聞いても頭を傾げてしまう。
翔太の母は翔太の能力を恐れ、自分の味を伝えなかった。父はそんな母の行動を諫めず、同調した。
翔太の亡霊を見える能力を、家族の誰も受け入れられなかったのだ。
翔太は自宅のアパートを出る時、一度自室を見る。そこから声がかけられるような気がして、無人の椅子を見る。亡霊すら、そこにはいなかった。
「いってきます」
外に出ると、吐いた息は白くなっていた。鼻の奥がつんと痛くなった。
早めに学校が終わり、翔太はバイト先の店へと向かった。土地販売の札が立つ空き地の前で目を細める。視界が一瞬揺らぎ、一軒の建物が現れた。 亡霊が営業している居酒屋。翔太の働く先だ。
戸を開けると、野菜を煮る音と香りがした。大根だ。淡い青の香りが店中に漂っている。
亡霊の店主が、顔を出した。
「来たか。すぐ着替えてこい」
表情も変えずに店主は言うと首を引っ込めた。
開店前、準備を整え終わった店内で。店主は筆を持っていた。さらさらと空に文字を書く。
「やおよろず」
うねり、店内を泳ぐ黒のやおよろずという文字を見上げて翔太は聞いた。
「これは一体?」
「あぁ。店名だ。いつまでも名無しなのは座りが悪い」
店主は気ままに泳ぐ文字を睨んだ。文字はしゅんと怯え、暖簾に飛び込んだ。暖簾に「やおよろず」という文字が浮かぶ。
ふとこの名前の由来に興味を持った。
「どうして、この名前をつけようと……」
翔太の言葉に店主は天井を見つめた。
その客がきたのは店が賑わいだしたときだった。座敷では猫の亡霊たちが酒を酌み交わしていた。カウンター席もテーブル席もほぼ満席。空いているのは注文が取りづらいため、客をほとんど通さない隅の席だけだ。
「兄ちゃん、酒をくれよぅ。親父が飲みすぎだってくれないんだよぉ」
「ツケを払ってから言ってくださいよ、それ。親父さんの好意に甘えたらいけないですって」
猫の尾を出した客はなぁご、なぁごと喉を鳴らしながら翔太にたかっていた。
戸が開いた。夜風と共に客が足を踏み入れた。猫の客は身を竦め、高い鳴き声を上げて座敷へ逃げ帰った。その客の存在を感じたカウンター席の客は続々と腰を上げる。翔太は固まっていた。客の体には黒いシミが広がっている。黒い霧が背中を這っていた。
「語り部」だ。身のうちに物語を宿した亡霊。その物語を人間に話さず、亡霊に語れば澱をため込む。澱をため込むといずれ悪霊や悪鬼へと変わってしまう。
憔悴した客を翔太は隅のテーブル席に案内した。
客はいつ悪霊に変わるか分からないほどに澱をため込んでいた。
店主は慌てて近づいてきた翔太を見て眉間にしわをよせた。
「翔太、店内だぞ」
「親父さん。語り部が……」
「分かっている。澱が酷いな。客が逃げ出した。まぁ悪霊になれば、周囲の亡霊を取り込むからな」
翔太は客の姿が見えない隅の席を見る。自然と目つきが厳しくなる。
「すぐ、話を聞かないと」
「待て」
店主はどんぶりにおでんを盛りつけた。出汁のしみた大根はつやつやとしていた。
「熱燗も出すか」
「親父さん。食べ物よりも」
店主は静かに翔太を見た。翔太は言葉を止めた。
「ここは居酒屋だ。客をせかして話をさせる場所じゃない。まずは腹を満たす。そうじゃなきゃうまく話も出来ないだろう」
店主の言葉に翔太ははっと目を見開く。何度も頷き、すいませんと謝った。
客は老人だった。髪の毛はほとんどなく、わずかに残った髪は、無造作に揺れていた。つやのある白すぎる肌に、窪んだ目、こけた頬。骸骨に皮がついただけのような顔だった。くたびれたシャツにオレンジの毛のベスト、ゴムのズボンを穿いていた。老人が最後にいた場所では着る服の基準はおしゃれであるかというより、着せやすいかどうかにかかっていた。
老人は虚空を見てうなだれた。何をしたいのか分からなかった。ただ自分は死んだ身で、死んでからしばらくすると、他の亡霊から忌避されるようになっていた。
何故か自分の話したいことを話すと、身が黒くなっていく。
少年がおでんと熱燗を差し出してきた。
のろのろと少年を見て、おでんに目をやる。
湯気と出汁の香りで胸が満ちた。息を吐く。
ちびりとちびりと食べる。箸で大根を細かくして、辛子をつけた。がんもどきを噛んだ時、出汁があふれ出た。飲み干すと自然と笑みがこぼれた。久しぶりな気がした。
熱燗を頂く。喉がしまるような感覚も心地よかった。
体が芯から熱くなる。
老人は何も言わずに食べ続けた。手先に熱が通い、今ここにいるのだということが分かっていく。同時に脚が動かない。この場所に脚を縫いつけられたようだ。
少年は老人の側に立っていた。少年は人間だった。
老人は小さく頷いた。ようやく話す相手を見つけたようだ。
「話していいですかね。たいした話じゃないんですが」
老人が言うと少年は唇を結んだ。
いや難しいな。特段俺は語るということをしたことがないんだ。だから拙かったとしたら謝るしかない。すまないと先に言わせてくれ。
俺は職人をしていたんだ。何の職人をしていたのかは覚えていない。ただ現役の頃は手なんてまめだらけだし、肌は日光で常に焼けていた。とても今の姿からは想像がつかないだろう。天気が崩れてしまうとすぐに仕事は出来なくなってしまう。仕事仲間は酒を飲みに行っていたが、俺はそんなに飲めなくてね。自宅に戻って、本を読んでいたよ。歴史が好きだったんだ。自分が今生きているのは、先人が時代を積み重ねた結果だと思うと不思議でね。興味を持っていたんだ。ただ周囲には言わなかった。恥ずかしくてね、学がないのに本を読むなんて、周囲の目は怖かった。知っていたのは家族ぐらいだった。
家族は暇があれば部屋に引きこもって本を読む俺を、そっけない人だと思っていたようだ。
俺には息子がいた。一人息子だ。野球が好きで、野球チームにも入っていた。野球選手の写真を使ったカードを集めていたな。息子とプロ野球の試合を見に行ったし、キャッチボールもせがまれた。俺は出来るだけ息子の頼みを叶えようと思ったが、ついぞ野球に興味が持てなかった。仕事仲間で好きな奴は多かったが、何が楽しいのか分からなかった。そのことは言いはしなかったが、息子は自然と俺の気持ちを察したのだろう。俺に野球について話すことをしなくなった。
布団の表面が冷えきっていた。喉がからからで声が出せなくなっていた。翔太は寒さを気にせず、台所に行き水道水を飲んだ。冷えた水はするりと喉に落ち、渇きは癒された。
翔太は一人暮らしだ。高校に入学したときから一人暮らしを始め、一年半が経とうとしている。翔太は朝食をとった。食パン二枚に市販の野菜ジュース、チョコレートがひとかけら。食事は五分で終わった。
翔太は偏食家ではないし、料理の仕方はバイト先の店主に多少は教えられていた。それでも料理を作らなかった。
自分が好きな味を知らなかったのだ。食べたい味もなかった。「うちのカレーが恋しい」という言葉を聞いても頭を傾げてしまう。
翔太の母は翔太の能力を恐れ、自分の味を伝えなかった。父はそんな母の行動を諫めず、同調した。
翔太の亡霊を見える能力を、家族の誰も受け入れられなかったのだ。
翔太は自宅のアパートを出る時、一度自室を見る。そこから声がかけられるような気がして、無人の椅子を見る。亡霊すら、そこにはいなかった。
「いってきます」
外に出ると、吐いた息は白くなっていた。鼻の奥がつんと痛くなった。
早めに学校が終わり、翔太はバイト先の店へと向かった。土地販売の札が立つ空き地の前で目を細める。視界が一瞬揺らぎ、一軒の建物が現れた。 亡霊が営業している居酒屋。翔太の働く先だ。
戸を開けると、野菜を煮る音と香りがした。大根だ。淡い青の香りが店中に漂っている。
亡霊の店主が、顔を出した。
「来たか。すぐ着替えてこい」
表情も変えずに店主は言うと首を引っ込めた。
開店前、準備を整え終わった店内で。店主は筆を持っていた。さらさらと空に文字を書く。
「やおよろず」
うねり、店内を泳ぐ黒のやおよろずという文字を見上げて翔太は聞いた。
「これは一体?」
「あぁ。店名だ。いつまでも名無しなのは座りが悪い」
店主は気ままに泳ぐ文字を睨んだ。文字はしゅんと怯え、暖簾に飛び込んだ。暖簾に「やおよろず」という文字が浮かぶ。
ふとこの名前の由来に興味を持った。
「どうして、この名前をつけようと……」
翔太の言葉に店主は天井を見つめた。
その客がきたのは店が賑わいだしたときだった。座敷では猫の亡霊たちが酒を酌み交わしていた。カウンター席もテーブル席もほぼ満席。空いているのは注文が取りづらいため、客をほとんど通さない隅の席だけだ。
「兄ちゃん、酒をくれよぅ。親父が飲みすぎだってくれないんだよぉ」
「ツケを払ってから言ってくださいよ、それ。親父さんの好意に甘えたらいけないですって」
猫の尾を出した客はなぁご、なぁごと喉を鳴らしながら翔太にたかっていた。
戸が開いた。夜風と共に客が足を踏み入れた。猫の客は身を竦め、高い鳴き声を上げて座敷へ逃げ帰った。その客の存在を感じたカウンター席の客は続々と腰を上げる。翔太は固まっていた。客の体には黒いシミが広がっている。黒い霧が背中を這っていた。
「語り部」だ。身のうちに物語を宿した亡霊。その物語を人間に話さず、亡霊に語れば澱をため込む。澱をため込むといずれ悪霊や悪鬼へと変わってしまう。
憔悴した客を翔太は隅のテーブル席に案内した。
客はいつ悪霊に変わるか分からないほどに澱をため込んでいた。
店主は慌てて近づいてきた翔太を見て眉間にしわをよせた。
「翔太、店内だぞ」
「親父さん。語り部が……」
「分かっている。澱が酷いな。客が逃げ出した。まぁ悪霊になれば、周囲の亡霊を取り込むからな」
翔太は客の姿が見えない隅の席を見る。自然と目つきが厳しくなる。
「すぐ、話を聞かないと」
「待て」
店主はどんぶりにおでんを盛りつけた。出汁のしみた大根はつやつやとしていた。
「熱燗も出すか」
「親父さん。食べ物よりも」
店主は静かに翔太を見た。翔太は言葉を止めた。
「ここは居酒屋だ。客をせかして話をさせる場所じゃない。まずは腹を満たす。そうじゃなきゃうまく話も出来ないだろう」
店主の言葉に翔太ははっと目を見開く。何度も頷き、すいませんと謝った。
客は老人だった。髪の毛はほとんどなく、わずかに残った髪は、無造作に揺れていた。つやのある白すぎる肌に、窪んだ目、こけた頬。骸骨に皮がついただけのような顔だった。くたびれたシャツにオレンジの毛のベスト、ゴムのズボンを穿いていた。老人が最後にいた場所では着る服の基準はおしゃれであるかというより、着せやすいかどうかにかかっていた。
老人は虚空を見てうなだれた。何をしたいのか分からなかった。ただ自分は死んだ身で、死んでからしばらくすると、他の亡霊から忌避されるようになっていた。
何故か自分の話したいことを話すと、身が黒くなっていく。
少年がおでんと熱燗を差し出してきた。
のろのろと少年を見て、おでんに目をやる。
湯気と出汁の香りで胸が満ちた。息を吐く。
ちびりとちびりと食べる。箸で大根を細かくして、辛子をつけた。がんもどきを噛んだ時、出汁があふれ出た。飲み干すと自然と笑みがこぼれた。久しぶりな気がした。
熱燗を頂く。喉がしまるような感覚も心地よかった。
体が芯から熱くなる。
老人は何も言わずに食べ続けた。手先に熱が通い、今ここにいるのだということが分かっていく。同時に脚が動かない。この場所に脚を縫いつけられたようだ。
少年は老人の側に立っていた。少年は人間だった。
老人は小さく頷いた。ようやく話す相手を見つけたようだ。
「話していいですかね。たいした話じゃないんですが」
老人が言うと少年は唇を結んだ。
いや難しいな。特段俺は語るということをしたことがないんだ。だから拙かったとしたら謝るしかない。すまないと先に言わせてくれ。
俺は職人をしていたんだ。何の職人をしていたのかは覚えていない。ただ現役の頃は手なんてまめだらけだし、肌は日光で常に焼けていた。とても今の姿からは想像がつかないだろう。天気が崩れてしまうとすぐに仕事は出来なくなってしまう。仕事仲間は酒を飲みに行っていたが、俺はそんなに飲めなくてね。自宅に戻って、本を読んでいたよ。歴史が好きだったんだ。自分が今生きているのは、先人が時代を積み重ねた結果だと思うと不思議でね。興味を持っていたんだ。ただ周囲には言わなかった。恥ずかしくてね、学がないのに本を読むなんて、周囲の目は怖かった。知っていたのは家族ぐらいだった。
家族は暇があれば部屋に引きこもって本を読む俺を、そっけない人だと思っていたようだ。
俺には息子がいた。一人息子だ。野球が好きで、野球チームにも入っていた。野球選手の写真を使ったカードを集めていたな。息子とプロ野球の試合を見に行ったし、キャッチボールもせがまれた。俺は出来るだけ息子の頼みを叶えようと思ったが、ついぞ野球に興味が持てなかった。仕事仲間で好きな奴は多かったが、何が楽しいのか分からなかった。そのことは言いはしなかったが、息子は自然と俺の気持ちを察したのだろう。俺に野球について話すことをしなくなった。
作品名:亡霊居酒屋の一夜〜やおよろず〜 作家名:佐和島ゆら