十二月の蝶
「ただ、時代の流れってやつでしょう。皆さんのおかげで祭には人が集まってくれますけど、先代の頃に比べれば、地鎮祭に呼ばれるのもめっきり減りましたしね。俺一人ならどうにか暮らせんこともないんですが、この家が結構金食い虫なんで」
二人して、なんとなしに天井を見上げた。
板張りの天井は簡素で、今は目立った傷みはないが、上から板を張って修復した形跡が何か所もある。
古い日本家屋だ。
玄関の反対側には社務所へ続く扉があり、そちら側はもう少しましな状態である。護符や札の売店や小規模な集会が行える広間は、真田たち氏子のおかげでどうにか体裁を保っている。しかし雨塚が一人で住んでいる住居の方はそうもいかない。
出された茶に息を吹きかけながら何か考えていた風の真田だったが、天気の話でもするような軽さで、ふと問いかけた。
「やっぱり、あれをやる気にはならないのかい。妙子さんみたいにさ」
「……」
雨塚は口を閉ざし、茶をすすった。
玄関の立ち話ではかわしたが、この話題が消えたわけでもなかったらしい。うまく別の話にすり替えられず黙ってしまうのが、若造と呼ばれる所以のひとつだろう。
「妙子さんはよく言ってたよ。あの子はわたしより余程素質がある……」
先代宮司の妹、雨塚妙子は、雨塚燐太郎の祖母ということになっている。
そうでないことはこの町に住む人の多くが知っているし、戸籍にも違う関係が記載されているが、祖母と孫とみなすのが一番しっくりくるため、そういうことになっているのだ。
「あの子は本物だ、ってね」
真田の声に妙子の声が重なって聞こえた気がして、雨塚は耳を塞ぎたくなった。
――本物。あの子は本物。本物の……の子。
愉快ではない記憶が泡のようにいくつも湧き上がってくる。
雨塚の戸惑い、あるいは苛立ちに気づいていないのか、真田はカステラをかじりながら続けた。
「特別な才能は、活かすべきだとわたしは思うんだけどねえ。燐太郎君、今でも見えてるんだろ?」
若干の間があった。
「……その、霊とか、そういうものがさ」
答えたくない。
天気のいい土曜日の午後にふさわしい話題ではなかった。
「真田さん」
雨塚は、やや堅い声色で相手の名を呼んだ。
内心の動揺は表には出していない、はずだ。妙子の声を思い出したついでに、厳しい躾の数々まで思い出したせいだろうか。
シャツの胸ポケットから煙草を引っ張り出して咥え、火を点ける。客人の許可を取っていないが、構うものか。
「人に見えんもんは、見えんほうがいいからそうなってるんですよ。多分」
深く煙を吸い込んで吐き出す。
古くなって黒ずんだ天井を背景に、紫煙がゆっくりのぼっていった。
「その証拠に、婆様はいなくなった」
妙子は今、この家にいない。六年前、雨塚が二十歳のときに消えた。
消えたのだ。出て行ったのでも亡くなったのでもなく。
そういうことが、雨塚の家系には時折起こる。
「別に婆様は悪いことをしていたわけじゃあない。それなりに代金はいただいていたようですが、妙なもんに悩まされる人がいて、頼まれて断れなかった。助けてあげたらだんだん噂になって、頼んでくる人が増えてった。それだけです」
あえて突き放すように言いながら、煙に隠れて真田の様子を窺うと、申し訳なさそうな顔になっていた。
相手に悪気がないのはわかっている。真田は、かつての雨降り神社を懐かしんでいるだけだ。しかし、雨塚がこの話を好んでいないということは、理解してもらってもいいだろう。
「――俺は、婆様の葬式で祓詞をあげたかったですよ」
視線を天井に向けたまま言い放って、雨塚は煙草を灰皿に押しつけた。
沈黙が流れ、裏手の竹林を風が揺らす音と、どこかを走る車のエンジン音が聞こえた。
「……その、悪かったね。妙子さんがあんなことになって、燐太郎君がどれだけ参ってたか、忘れたわけじゃないんだけど」
雨塚はカステラに手を伸ばしながら、真田の言い訳めいた言葉にかぶせるようにして続けた。
「心配していただいてるのはわかってます。でも、二足の草鞋は別に負担じゃあないんです。教師は面白いですよ。高校生ってのは実に微妙な年頃で、大人顔負けの遠大なテーマを考えてるかと思えば、まるっきり餓鬼そのものの悪戯をやらかしたりする。俺もこっちじゃ若すぎるのなんの言われてますが、向こうではおっさん扱いだし。……今の暮らしが、俺には合ってると思いますよ」
楊枝に刺したカステラの端を一口かじる。
「うん、旨い。このざらめのついてるところが好きなんです」
笑顔を作って言えば真田も小さく笑う。
「姪っ子に教えておくよ。雨塚先生の好物は三間堂のカステラだって」
「賄賂を贈られても成績に手心は加えませんがね」
「厳しいらしいね。かっこいいし優しいのにテストめっちゃ難しかったー、とか言っていた」
女子高生の口真似をする白髪の男。なかなかに珍妙である。
「前半はリップサービスでしょうな」
「結構人気があるって聞いたよ」
苦笑するしかない。
しかし教え子に褒められてもしょうがない。人目の厳しい昨今、妙な気を起こしたら犯罪だ、などと思いながらカステラをもぐもぐやっていると、真田がまたしても唐突に言った。
「燐太郎君はお嫁さんは貰わないのかい?」
むせた。
よりによって食べていたのはカステラである。盛大に喉に詰まらせかけ、慌てて茶で流し込む。
「げほっ、ごほっ! ……勘弁してください。黄泉比良坂が見えましたよ」
雨塚の油断というべきだろう。二十代半ばを過ぎて独身の宮司は、そういう意味でも近所の人々の好奇の目にさらされている。この手の話でツッコミが入るのは常のことだった。
「さっき言ってたじゃないか。一人で暮らしていくならどうにかなるけれど、って。一人じゃない将来も想定してるんだろう?」
「そりゃあ、まあ。この神社を預かる以上、いずれはと思ってますが。でも、簡単にはいかんでしょう。特殊な家業がついてくることを納得してくれる人でないと」
もっともらしく答えたものの、視線が泳いでしまうのは止めようがなかった。
「そういうもんかなあ」
何故か残念そうに真田は言って茶を飲んだ。
相手がいるかどうか訊かれなかったのは、雨塚の彼女の有無など近隣一帯に知れ渡っているからだ。つきあったり別れたりしたら翌日には皆知っている。ここしばらく雨塚に彼女がいないことは、燃えるゴミの日が火曜と木曜であるのと同じくらいに、公共の情報なのだ。
「燐太郎君になら、うちの孫をあげてもいいんだけどね」
「ありがたいお話ですが、花梨ちゃんでしたっけ? 幾つになりましたか」
「四歳」
「十年ならともかく、二十年待つのはつらいですね」
ははは、と男ふたりは笑い声を上げる。
たいした中身はない。近所づきあいというのはそういうもので、だが自分の生活はそれに支えられているのだということを、若い宮司はよく理解していた。
しかし、くだらない話をしているにも関わらず、真田の表情が曇ったのに雨塚は気づいた。
「……どうかされましたか」