小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

十二月の蝶

INDEX|1ページ/4ページ|

次のページ
 



   一



 無数の雫が空から落ちてくる。
 その雫が木立の葉を打つ音を、聞いていたのだと思う。
 長い長い時間――思い出せないほどに、永い間。



 冬の西日に射られ、雨塚燐太郎は開きかけた目を細めた。
 寝起き特有の仄かな温かさが心地よくて、もう一度眠ってしまいたかった。しかし、すぐに身体の表面がだいぶ冷えていることに気づいた。
 覚悟を決めて目を開けると、古びた木の文机と、その上に投げ出した自分の腕が見えた。
 机に突っ伏して寝ていたようだ。
 文机の上のノートパソコンは放置している間に休止モードになったのか、埃の付着した黒い液晶画面を晒している。パソコンの隣に置いた青硝子の灰皿に、吸殻が三本溜まっていた。
 左手の開け放した襖の向こうから、傾きかけた太陽が、オレンジ色の光を投げ込んできている。
 雨塚は、言語未満の呻き声を漏らして伸びをした。座卓の背もたれが、みしりと音を立てる。
「――せい」
 男の声がした。
 玄関に誰か来ているらしい。そういえば、この声に起こされたような気がする。
「――先生。雨塚先生」
「あいよー」
 とりあえず、玄関に向かって返事だけはしておく。
 目にかかる長い前髪をかきあげ、のっそり立ち上がった。変な姿勢でうたた寝していたせいで、腰が痛い。
 俺も歳かねえ、などと無意味な独り言を零して、腰をさするついでにシャツの裾を直す。
 雨塚はようやく二十代の半ばを過ぎたばかりだ。
 喋り方や所作のせいで老成していると言われることもあるが、彼の所属する業界は圧倒的に老人が多く、若造扱いされるのが常である。
 ぶつけないように頭を下げて鴨居をくぐり、雨塚は板張りの廊下へ出た。
 廊下は掃出し窓によって縁側と隔てられている。その庭先で、山茶花がつやつやした濃い緑の葉に西日を反射させていた。
 狭い庭だ。とはいえこちら側はあくまで裏庭だし、あまり広いと雨塚一人の手に余る。このくらいでちょうどいいのだ。洗濯物を干すスペースさえあればいい。
 廊下の角を曲がれば、濃い飴色の床が軋んだ。
 玄関の三和土に降りる前に、雨塚は下駄箱の上の古い掛け時計を確認した。十五時三十七分。西日の色はもっと遅い時間を示している気がしたが、十二月の頭ではこんなものだろう。
「雨塚先生ー」
「ほいほい、ただいま」
 サンダルを引っ掛けて磨りガラスの引き戸を開けると、中年の男が立っていた。
「やあ、雨塚先生。何度呼んでも出てこないから、不在かと思ったよ」
 訪問者は五十代後半。シャツにチノパン、上にダッフルコートを着たラフな服装だが、半白の髪はきれいに撫でつけられ、片手に駅前の和菓子屋の紙袋を提げて、人の良さそうな笑みを浮かべている。
 雨塚のよく知っている人物だった。社殿ではなくこの家を訪ねてくる時点で、見知らぬ人物である可能性は限りなく低いのだが。
 ここの敷地を出て長い石段を降り、ほんの少し進んだ先の家の住人だから、ほぼ隣人のようなものだ。
 名を真田といい、市内の部品メーカーで役員をしている。
「お待たせしてすみません、真田さん。寝てました」
 取り繕ってもしかたないので、雨塚は正直に言った。
 軽く直したもののシャツには皺が入っているし、髪も乱れたまま、目尻に欠伸の涙が残っているような有様だ。取り繕いようがないともいう。
 真田は笑った。
「いい若いのが土曜日に家で昼寝かい」
「はあ、まあ、相変わらずで」
 少しばつが悪くなり、雨塚は頭をかいた。
 真田は、雨塚が小学校に上がる前から彼を知っている。
 幼い頃を知られている近所の人というのは、とかく扱いに困るものである。雨塚の周辺にはこの種の人々がひしめいているので慣れてはいるが、うまく捌けるかどうかは別の話なのだ。
「今日も神社はほったらかしか。学校は休みだろう? 困ったもんだな、燐太郎君」
 雨塚は肩を竦めた。
「いまどき、宮司の常勤してない神社なんて珍しくないですよ。だいたいうちに来る人はこのへんの人ばっかりだ。そこいらに見当たらなきゃ、また寝てるんだなぐうたら神主め、と思われるだけです」
「さあ、どうだろう。急な祈祷のお願いだってあるかもしれないよ。昔はそういうのがたくさんあったじゃないか。東京や名古屋からも訪ねてきたりして」
 そう言われて雨塚は少し口ごもった。
 彼にとってあまり楽しい話題ではない。真田に含むところがあるわけではないのも、わかっているのだが。
「……そういうのは、婆様の時代の話ですよ」
 表情に出したつもりはないが、微妙な間に真田も気づいたのだろう。相手が次の言葉をためらった隙に、雨塚は腕組みして首を傾げた。
「で、今日はどんなご用向きですか。まさか祈祷のご依頼じゃあないでしょうね」
「なに、用ってほどのものもないんだがね。三間堂のカステラを持ってきたんだ。好きだろう」
 真田は持っていた紙袋を上げて見せた。
「大好きです」
 雨塚はほっとしたように笑うと、どうぞ、と手で奥を指した。



   二



 水秦(みなはた)神社は、八百年あまりの歴史を持つ由緒正しい神社である。

 鎌倉幕府開闢の折、この近辺に定住する人々が急増したことに加え、未曾有の旱魃が地域を襲い、餓死者が多数出る事態となった。苦しむ人々を憐み、雨を祈願して源のなにがしかが建立したのだという。
 少なくともそういうことになっているので、人に訊かれれば雨塚はそう説明する。
 祭神は天照大神のほか、龍形の水神である淤加美神(おかみのかみ)、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみずやれはなのかみ)。祭神がこの三柱に定まるまでにはいろいろとあったらしいが、そういうことになっているのである。それ以上の説明をする気は雨塚にはない。
 建立以来、宮司として水秦神社を預かるのが雨塚家だ。八百年続く家系というわけだ。そういうことになっているのだがだいぶ胡散臭いので、雨塚は適当に濁して話すことにしている。
 そんな由緒正しい水秦神社であるが、土地の人はめったに正式な名で呼ばない。

 雨降り神社。それが、水秦神社の通称だ。



 現在の水秦神社の宮司をつとめる雨塚燐太郎は、当年とって二十六歳。大学を卒業して資格を取得した四年前から、正式に神事を司っている。
 いつでも眠そうに見える茫洋とした目をして、伸びすぎた前髪がその上にかかり、長身もあいまってぼんやりした印象を与えがちな青年だが、とにもかくにも正階をもつ神職であることには間違いない。
 ただし、宮司が雨塚のたったひとつの仕事というわけでもない。
「正直な話、食えんのですよ。教師をやめることは考えてませんね」
「そうか、食えんかあ」
 雨塚と真田は、縁側に面した畳敷きの部屋で向かい合っていた。
 神社の境内にある雨塚の自宅だ。広いとはいえないが、床の間も備えた客間である。卓上では客の土産のカステラが、鮮やかなたまご色の断面を見せて木の皿に載っている。
「真田さんたちには、本当によくしていただいてますよ」
 雨塚は茶を淹れながら、とりなすように言った。
作品名:十二月の蝶 作家名:いいぐら